10 寛政の蜂起和人殉難墓碑
番号 | 名称 | 現在の建物 | 現在地 | 設置年度 |
10 | 寛政の蜂起和人殉難墓碑 | 望郷の岬公園 | 納沙布岬 | 昭和63年度 |
概要
寛政元(1789)年5月、国後島(くなしり)とメナシ(現在の標津町付近)のアイヌの人々が、当時この地域の場所請負人(ばしょうけおいにん)であった飛騨屋久兵衛(ひだやきゅうべえ)の支配人らに脅されて、僅かな報酬で労働を強いられ、やむなく蜂起(ほうき)し和人(わじん)71人を殺害した。
松前藩は、ノッカマップ(根室半島オホーツク海側)にアイヌの人々を集め蜂起の指導者37人を処刑した。このできごとは、“寛政クナシリ、メナシアイヌの蜂起”と称されている。
この墓碑は、死亡した和人71人の供養のために文化9(1812)年に造られたと刻まれているが、誰がどこで造り、どこに建立しようとしたか、なぜ浜に打ちあげられていたかは、明らかではない。おそらく海上輸送の途中で船が難破し海中に没していたものと推定される。
それが、造られてから丁度100年後の明治45年、納沙布岬に近い珸瑶瑁(ごようまい)の浜で発見され、現地墓地入口に建立していたが、昭和43年、国後島を望むこの地に移設したもので、当時の歴史を物語る重要な文化財である。
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更新日:2023年03月30日