11月

11月

11月1日

1967年(昭和42年)
北方領土早期返還促進キャラバン隊道内47市町村に派遣

根室市は、初の「北方領土早期返還促進キャラバン隊」を道内47市町村(17市30町村)に派遣しました。
根室市内の青年20名が隊員の自家用車に分乗し、10日間の日程で札幌など道央を中心に街頭演説や署名活動を展開。訪問先の市町村長には根室市長からのメッセージを手渡しました。

1968年(昭和43年)
千島会館増築落成

田中総務長官を迎え、千島会館宿泊施設の増築落成式が、関係者約60人が出席して行われました。

11月2日

1997年(平成9年)
クラスノヤルスク合意

ロシアのクラスノヤルスクで、橋本龍太郎首相とエリツィン大統領との非公式首脳会談が行われました。
「ネクタイなし」の会談で胸襟を開いた話し合いとなり、1993年の「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」ことに合意しました。

11月3日

1945年(昭和20年)
北方水域にマッカーサー・ライン設定される

連合国軍総司令部(GHQ)は、最高司令官マッカーサー元帥の名のもとに、日本の漁船が操業できる海域を規制する マッカーサー・ラインを珸瑤瑁水道に設定しました。

1995年(平成7年)
江藤隆美総務庁長官来根

この日、江藤隆美総務庁長官が来根し、閣僚としては初めて空から北方領土を視察しました。

11月4日

1984年(昭和59年)
中曽根・チーホノフ会談

故ガンジーインド首相の葬儀に参列した中曽根首相は、ニューデリーのソ連大使公邸にチーホノフソ連首相を訪問し、北方領土問題を解決して、平和条約を締結することが日ソ関係の本当の解決になると発言しました。
しかし、チーホノフ首相は依然として厳しい姿勢をくずしませんでした。

1997年(平成9年)
北方領土返還要求啓発婦人キャラバン結成

根室市婦人団体連絡協議会が1988年から派遣している「北方領土返還要求啓発婦人キャラバン」の第10次キャラバン隊が結成され、根室市長に出発のあいさつをしました。

11月5日

1897年(明治30年)
択捉島に「紗那支庁」が設けられる

全道19支庁の一つとして択捉島に「紗那支庁」が設けられました。
なお、明治36年には松前支庁と同時に廃止され、紗那支庁は根室支庁に統合されました。

1923年(大正12年)
択捉島水産会が設立される

択捉島の紗那郡紗那村に、水産製品の検査などを行う「択捉島水産会」が設立されました。

11月6日

1997年(平成9年)
ヘイキ・バラステ駐日エストニア大使夫妻が北方領土視察

1991年の旧ソ連崩壊とともに独立したエストニアのヘイキ・バラステ駐日大使夫妻が、3月の駐日大使館開設を記念して来道、根室市を訪問し、納沙布岬から北方領土を視察しました。
エストニアは日本と同様にロシアとの間に領土問題を抱えていることから、「クラスノヤルスク合意で日本側に楽観的な見方も出ているが簡単にはいかないだろう。領土問題の解決に向けてお互いの経験を生かし合いましょう」と述べました。

11月7日

1950年(昭和25年)
千島及び歯舞諸島復帰懇請同盟結成

千島及び歯舞諸島復帰懇請同盟(事務局札幌)が結成され、以後、機会あるごとに中央関係機関に対し懇請するなど、北方領土返還運動の中心団体となりました。

11月8日

1974年(昭和49年)
第5次「北方領土返還促進北海道キャラバン隊」関東地方を訪問

道内青年団体代表からなる「北方領土返還促進北海道キャラバン隊」が道庁赤レンガ前を出発しました。
富永正根室青年会議所副理事長を隊長とする青年団体代表26人は、21日までの約半月間東京、神奈川、千葉、茨城、栃木、群馬など一都六県を回り、世論を盛り上げました。
北方領土返還促進キャラバン隊は、昭和42年に根室市が青年20名をマイカーなど8台で道内47市町村に派遣したのを皮切りに、第3回目の昭和44年には東京、三重など13都県に派遣しています。
昭和45年から北海道の主催となり、平成5年からは千島歯舞居住者連盟が主催し、平成11年まで実施されました。

11月9日

1986年(昭和61年)
北方領土返還促進海外使節団訪欧

北方領土問題に関する国際世論を高めるため、昭和56年から北方領土復帰期成同盟が主催して海外に使節団を派遣していますが、この日から16日まで8日間の日程で、デンマーク、ノルウェー、イギリスのヨーロッパ3カ国を訪問しました。
これまでの使節団は、ニューヨークの国連本部や各国国連代表部を中心に要請を続けてきましたが、この年は、シェワルナゼソ連外相が来日し、8年ぶりに日ソ外相間定期協議が再開され、ソ連が北方領土問題で話し合いのテーブルに着いたことから、使節団の要請活動も欧州の本国政府に対し直接行うこととしたものです。

11月10日

1978年(昭和53年)
在京報道関係者一行北方領土を視察

昭和49年から毎年行われている北方領土問題対策協会主催の第5回報道関係者現地視察が、9日から4日間の日程で行われ、この日、納沙布岬から北方領土を視察したあと、根室海上保安部、根室支庁、根室市役所などを訪問、市役所会議室で元島民など地元関係者と懇談しました。

1980年(昭和55年)
ミス根室も返還運動に一役

8月に「第3回海の女王・ミス根室」に選ばれた3名が長崎市で開催の北方領土展に向かう途中、総理府に中山総務長官を訪問し、一日も早い北方領土の返還を要望しました。

11月11日

1998年(平成10年)
小渕総理大臣ロシアを公式訪問

小渕総理大臣はロシアを公式訪問し、エリツィン大統領と会談、国境画定委員会及び共同経済活動委員会の設置、元島民の北方四島への自由往来などで合意しました。
また両首脳は、日本国とロシア連邦の間の創造的パートナーシップ構築に関する「モスクワ宣言」に署名(13日)し、クラスノヤルスク(平成9年11月2日)及び川奈合意(平成10年4月19日)に基づき「2000年までの日ロ平和条約締結に全力を尽くすとの決意」が日ロ間の公式文書で初めて確認されました。

11月12日

1973年(昭和48年)
北方海域における安全操業問題協議会開

横田根室市長の呼びかけで「北方海域における安全操業問題協議会」が開かれました。
この協議会は、四島ゼロマイルの安全操業を要望しても無理ではないか、あるいは政府にだけ依存していたのではなかなか実現しないのではないか、との考えから開かれたもので、安全操業推進対策協議会のメンバーとなっている根室管内漁協、市町村、婦人・青年団体など広い層の代表者およそ40名が出席しました。
安全操業問題も北方領土問題と同様に一つの転換期にきているとして、関係者が上京して政府関係者と協議することを決定しました。

11月13日

1998年(平成10年)
日ロ投資保護協定

1997年11月、クラスノヤルスクでの非公式首脳会談において、エリツィン大統領の強い要望により、投資の促進及び保護に関する日本国政府とロシア連邦政府との間の「投資保護協定」の交渉開始が決定されました。
1998年2月に第1回交渉が実施された後、第4回交渉での実質合意を経て、この日小渕総理の訪ロ時に都甲駐露大使とシャポバリアンツ経済大臣により署名され、2000年5月27日に発効しました。

11月14日

1964年(昭和39年)
千島会館落成

北方領土元居住者の援護と北方地域に関する諸問題の啓発施設として、宿泊施設を兼備する「千島会館」が根室市に建設されました。
同会館は千島歯舞諸島居住者連盟が受託して管理し、元居住者の生活、生業、融資の指導・相談業務や技能習得の講習・研修会の開催など援護対策の推進、北方領土視察者等に対する啓発・研修や島民の会等の元居住者の活動拠点として広く活用されています。
現在の「千島会館」は平成2年12月1日に全面改築されたものです。

11月15日

1996年(平成8年)
プリマコフロシア外相訪日

(第7回日ロ外相間定期協議)
プリマコフロシア外相は外相間定期協議の席上で、池田外相に対し北方領土の共同開発案を公式に提案し、また、ビザなし交流について、参加対象を技術者等へも広げて参加人員を増やすことなどの拡充案を提案しました。
また、日本漁船の安全操業を目指す「操業枠組み交渉」の促進については両国で合意がみられました。

11月16日

1822年(文政5年) 旧暦10月3日
蝦夷地場所請負人 飛騨屋久兵衛益郷が没する
蝦夷地場所請負人の飛騨屋久兵衛益郷が没した日。
飛騨屋は、4代にわたり請負人を務めましたが、アイヌ民族に対する搾取が過酷に過ぎたために「クナシリ・メナシの戦い」を誘発、飛騨屋の使用人70名と松前藩士1名が殺害され、松前藩から請け負っていた場所は没収されました。
飛騨屋は幕府に公訴しましたが退けられ、回復不可能となったため、店を閉じ出身地の飛騨の下呂に引き揚げました。
犠牲となった71人の墓碑は現在、納沙布岬に建立されています。
一方、この「戦い」で処刑された37人のアイヌの人達のイチャルパ(慰霊祭)が、毎年根室半島ノッカマップで行われています。

11月17日

1952年(昭和27年)
平和条約発効後のソ連によるだ捕攻勢に対する陳情

北海道附属嶋嶼復帰懇請委員会安藤石典会長は、公海における不法だ捕に関する指導・保護について、根室商工会議所会頭、根室・歯舞両漁業協同組合長との連名で政府関係機関宛に陳情書を提出しました。
この当時、ソ連が署名しないままサンフランシスコ平和条約が発効し、ソ連の日本漁船に対するだ捕攻勢が続いていました。

11月18日

1976年(昭和51年)
「北方領土返還要求のつどい」石川県金沢市で開催

昭和45年から始まり、この年で7回目となる総理府北方対策本部と北海道が主催する「北方領土返還要求のつどい」が、金沢市で開催されました。
北前船の寄港地として栄え、北洋漁業の大立者を輩出した石川県は領土問題への関心が深く、800人もの人々が参加しました。
同時に大和デパートで開かれた「北方領土展」には6日間の会期中に入場者が4万人、返還要求署名5,091人と大盛況でした。
主催者として、秋山総理府副長官は「四島の一括返還を実現して平和条約を結ぶという政府の方針は不動」と述べました。

11月19日

1891年(明治24年)
片岡侍従の千島調査

明治天皇は北海道の開拓に関心を持ち、侍従片岡利和を派遣し千島巡視を命じました。
侍従は、11月14日根室港を出帆し、途中色丹島を調査して択捉島に向かい、19日同島蘂取に上陸、ここに越年しました。当初はウルップ島で越年する予定でしたが、季節が遅れたため翌年4月まで蘂取に留まりました。
片岡侍従は、越年中択捉島内を跋渉して島内事情を精査し、明治25年4月紗那に本拠を移したのちウルップ島から占守(しゅむしゅ)島まで渡り、9月に根室経由で帰京しています。

11月20日

1895年(明治28年)
国後島乳呑路に小学校校舎建設

この年の6月に、留別村の乳呑路に共有税庫を仮校舎として開校していた小学校の新校舎が、部落裏の海岸丘上に建設されました。39年には20坪の増築もされました。
昭和20年8月15日の終戦当時、3学級で児童数135名、教員4名、校舎も200坪となっていました。
1975年(昭和50年)
第十真盛丸が衝突され沈没

択捉島沖に出漁中の第十真盛丸が、樺太時間の午後7時8分頃、不法漁労でソ連漁業監視船に拿捕されました。
その後、真盛丸はソ連船に衝突されて沈没し、乗組員3人は溺死、残りの1人が救助されたと、29日になってソ連側から根室海上保安部に連絡がありました。

11月21日

1987年(昭和62年)
貝殻島周辺ウニ漁の民間協定調印

19日からモスクワの漁業省で行われていた北方領土・貝殻島周辺のウニ漁交渉が21日午前、コンブ漁と同じ「入漁料方式」の民間協定とすることで妥結し、北海道水産会の所司栄四郎副会長とソ連漁業省のシネリニコフソ日損害賠償処理委員会議長が議定書に正式調印しました。

11月22日

1943年(昭和18年)
第1回カイロ会談が行なわれる

アメリカのルーズベルト大統領と、イギリスのチャーチル総理大臣および中国の蒋介石大元帥による第1回カイロ会談がこの日から行なわれました。
27日にはこの3国は、領土不拡大の原則をうたった『カイロ宣言』に署名しました。

※『カイロ宣言』については、11月27日を参照のこと。

11月23日

1994年(平成6年)
第2次人道支援訪問団が出港

北海道東方沖地震で被災した北方領土への政府の第2次人道支援として、島民の越冬用物資を国後、色丹、択捉の3島に届ける貨物船サンライズ(3,600トン)が、根室・花咲港を出港しました。
政府関係者や民間支援団体、報道関係者など19人を乗せた客船コーラルホワイト(354トン)も同時に出港しています。

1991年(平成3年)
奥田運輸大臣北方領土視察

奥田運輸大臣が就任以来はじめて来根し、納沙布岬から北方領土を視察しました。

11月24日

1984年(昭和59年)
第4回北方領土返還促進国連使節団が渡米

昭和56年から始まり、今回で4回目となる北方領土返還促進国連使節団(団長・横路孝弘北海道知事)12名が8日間の日程で成田空港を出発しました。
北方領土問題は、日ソ両国間の問題ではありますが、国際世論を喚起し、世界の良識ある国々にわが国の主張と立場をアピールし、支持を求める運動として行われたものです。

11月25日

1978年(昭和53年)
「北方地域特別対策措置要求大会」開催

第二次世界大戦直後にソ連軍の不法占拠により故郷・北方領土を追われた人たち約500人が、全国から釧路市に集まり「北方地域特別対策措置要求大会」を開催しました。
北方四島の一括返還と、国内措置として放置されている北方地域旧漁業権、在島権益である土地、建物等の財産や鉱業権等の保全対策の確立を強く訴えました。

11月26日

1980年(昭和55年)
沖縄で北方領土返還要求のつどい開催

那覇市内で「北方領土返還要求のつどい」が開催されました。
政府関係者や堂垣内北海道、西銘沖縄両知事をはじめ、北方領土元島民や北方領土返還要求北海道キャラバン隊など両道・県から関係者約500人が参加しました。
「つどい」は昭和45年から毎年、全国各地で開かれていますが、この年は昭和47年5月15日に祖国復帰した沖縄県で、北方領土返還要求運動の世論を盛り上げようと初めて開かれました。

11月27日

1943年(昭和18年)
カイロ宣言に署名

エジプトのカイロにアメリカのルーズベルト大統領、中国の将介石大元帥、およびイギリスのチャーチル総理大臣が集まり、「自国のために何の利益も要求するものではなく、また領土拡張の念を有するものではない」との領土不拡大の原則をうたった『カイロ宣言』に署名しました。
この三大同盟国の目的は、1914年の第一次世界戦争開始以後に、日本国が奪取したり占領した太平洋の一切の島嶼(とうしょ)を剥奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取した一切の地域を中国に返還することにある、とされていました。

11月28日

1945年(昭和20年)
ソ連軍占領による北方四島人口の減少

昭和20年8月15日の終戦から13日後の8月28日、ソ連軍は択捉島に次いで色丹島、国後島、歯舞群島に上陸し日本軍の武装を解除して、9月5日までに占領を完了したとされています。
島民は不安と恐怖から一時避難的に小舟で脱出を始め、11月28日現在の四島の日本の島民は、2,018戸、9,538人(マッカーサー元帥あて根室町長名の陳情書の付属資料による)
終戦当時は、3,124戸、17,291人であったから、ソ連軍占領下の3ヶ月余で45%の島民が脱出したことになります。
その後、脱出不可能となった約半数の島民は、昭和22年から23年にかけて全員樺太経由で函館に強制送還されました。

11月29日

1969年(昭和44年)
北方領土返還促進国民大会東京で開催

日比谷屋外大音楽堂で開催されたこの大会は、11月21日に発表された「日米共同声明」で、1972年中に沖縄が日本に返還されることに決定した直後だけに、北方領土復帰期成同盟や千島歯舞諸島居住者連盟など北方領土問題連絡協議会加盟団体その他一般市民を含め3,500人もの人々が参加しました。
熱気のこもった雰囲気の中で、松本俊一大会実行委員長は、強力な世論により外交をバックアップし、北方領土問題の解決促進をはかりたい、と強調しました。
その後、参加者全員で「北方領土を返せ」のシュプレヒコールを繰り返しながらソ連大使館前などを街頭行進しました。

11月30日

1966年(昭和41年)
ソ連から姉妹都市提携の申し入れが根室市に届く

根室市は日ソ友好を深めようとソ連との姉妹都市提携を希望していましたが、この日、サハリン州ネベリスク市(旧樺太本斗)執行委員会議長から、姉妹都市提携を申し入れる手紙が根室市長あてに届きました。
これに対し、横田根室市長は根室市のパンフレットと絵ハガキ、先に根室日ソ友好親善協会が市内の小中学生から募った絵画62点と習字36点を送るなどしましたが、この当時の日ソ間の厳しい外交事情から締結には至りませんでした。

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更新日:2022年02月03日