7月

7月

7月1日

1984年(昭和59年)
北方対策本部、総務庁に移管

国の機構改革で総務庁が発足したことに伴い、これまで総理府に設置されていた北方対策本部が総務庁に移管されました。
この時期のソ連の北方領土問題に対する態度は依然として厳しく、アンドロポフ書記長の葬儀に出席した安倍外相にグロムイコ外相は「領土問題についてのソ連の立場は変わらない」と述べています。

7月2日

1986年(昭和61年)
「北方領土墓参」11年ぶりの再開が決定

北方四島からの引揚げ島民にとって待望の行事である北方領土墓参が、昭和51年以来11年ぶりに再開されることが決定しました。
この日モスクワで日ソ双方の口上書が交換され正式に確定されました。
昭和39年に始まった北方領土墓参は51年にソ連が慣行を無視し旅券と査証取得を要求したことから中断していたものです。

7月3日

1946年(昭和21年)
「北海道附属嶋嶼復帰懇請委員会」設立

終戦の年である昭和20年に根室町長安藤石典の名で連合国軍最高司令官マッカーサー元帥あてに陳情書を提出した運動がきっかけとなり、安藤石典を会長とする「北海道付属嶋嶼復帰懇請委員会」が設立されました。
同委員会は、日本固有の領土である四島の復帰を全国民の願いとして世界に訴えて復帰の実現を期すべきであると決意、8月6日から活動を開始し連合国軍総司令官その他に対してソ連の四島占領を解除してほしい旨、陳情を行うなど精力的に復帰運動を行いました。

7月4日

1994年(平成6年)
「北隣協」初のビザなし訪問実施

根室市は北方領土返還運動の原点の地として独自のビザなし訪問団派遣を要望しており、この日根室支庁管内1市4町でつくる「北方領土隣接地域振興対策根室管内市町連絡協議会(北隣協)」が実施する初めてのビザなし訪問団が国後島、色丹島へ向け出発しました。

※日本側のビザなし訪問団としてはこの年5回目。
※ビザなし交流はこれまで国、道レベルで行われてきました。

7月5日

1983年(昭和58年)
北方領土問題の解決の促進を図るための基本方針決定

中曽根内閣総理大臣はこの日、北方領土問題の解決の促進を図るための基本方針を決定しました。
「北方領土の一括返還を実現して日ソ平和条約を締結し、両国間に真の相互理解に基づく安定的な関係を確立することは、わが国対ソ外交の基本的課題である」とし、さらに「わが国は今後とも基本的立場を堅持し、粘り強い対ソ外交交渉を継続することはもとよりであるが、これを支える最大の力は北方領土の返還を求める一致した国民世論にほかならない」としました。

7月6日

1970年(昭和45年)
北方領土問題研究会に「法制・外交部会」発足

北方領土問題対策協会は、北方領土に関する資料の収集や専門的な調査研究を行うため、同年6月8日に設立した北方領土問題研究会の初会合を行い、法制・外交部会を発足させ、北方領土の法的地位などについて研究を開始しました。

7月7日

1958年(昭和33年)
「日ソ平和条約締結根室地方近海漁業協定締結促進期成会」設立

「日ソ平和条約締結根室地方近海漁業協定締結促進期成会」が発足しました。
北方領土復帰とあわせて安全操業の実現をめざして運動を続けてきた根室地方の組織(北海道付属嶋嶼復帰懇請委員会、根室地方沿岸漁業対策協議会、南千島復帰懇請同盟、根室地方平和促進経済復興同盟、色丹島帰住対策協議会など)は根室支庁管内の市町村、市町村議会、漁業協同組合、商工会議所、水産関係団体などとそれぞれ連絡をとりあってきましたが、さらに、その運動を強力なものにするため、根室支庁管内の各団体を網羅し、この日の「期成会」設立となったものです。
 

※現在、根室支庁管内は1市4町で村はありませんが、この当時は、根室市、中標津町、標津町、別海村、羅臼村、歯舞村の1市2町3村でした。

7月8日

1976年(昭和51年)
「根室市北方領土返還要求推進協議会」設立

「根室市北方領土返還要求推進協議会」が発足しました。
根室市における北方領土返還要求運動はそれぞれの団体が自主的に推し進めていましたが、これらの団体(千島歯舞諸島居住者連盟根室支部、北方領土居住者壮青年連合会、北方領土問題青年会議、根室青年会議所、各島民の会など50団体)が大同団結、一本化しさらに強力な運動を展開するため設立したもので、現在は62団体が参加しています。   
同会は毎年8月の北方領土返還要求強調月間に返還要求根室市民のつどいを開催するなどしています。

7月9日

1985年(昭和60年)
3市議会代表者が北方領土視察のため来根

毎年7月には全国各地の市町村議会による北方領土視察団の来根が多くなりますが、この日1日だけで3市議会(兵庫県姫路市議会、岩手県一関市議会、山形県南陽市議会)が視察に訪れました。
全国各自治体の北方領土問題への関心の高まりがうかがわれます。

7月10日

1990年(平成2年)
「ヒューストン・サミット」開催

米国ヒューストンで主要先進国首脳会議(サミット)が開催されました。
北方領土問題に関して国際的な認識が深まり、同サミット議長声明では「日ソ関係正常化の上で不可欠な措置としての北方領土問題の早期解決を支持する」と言及されました。

1980年(昭和55年)
納沙布岬に「鎮魂碑」建立

第二次世界大戦末期に北方四島の守備にあたった富山歩兵第35連隊第2大隊国後島守備隊松野隊の戦友、遺族で結成した松野会が納沙布岬に「鎮魂碑」を建立しました。
終戦後にソ連軍の武力侵入で亡くなった戦友や民間人の霊を慰めるとともに、四島の早期返還の願いを込めて建立したものです。

7月11日

1956年(昭和31年)
根室漁協がソ連だ捕抑留船員釈放運動

根室漁協がソ連抑留漁船員名簿を外務省に提出し、だ捕抑留されている船員49名の減刑をソ連側に働きかけるよう要請しました。
同漁協はこれまで一度もだ捕船員の釈放運動を実施したことがありませんでしたが初めて釈放運動を実施したものです。

7月12日

1985年(昭和60年)
後藤田総務庁長官、北方領土視察のため来根

昭和59年に発足した総務庁の初代長官後藤田正晴氏が、初めて北方領土視察のため来根しました。
後藤田長官は、地元関係者や元島民らと懇談し各界代表からの北方領土の早期返還実現、北方領土隣接地域振興基金の早期造成、北方領土墓参などの要請を聴き「北方四島の一括返還は政府の基本的考え方であり、四島一括返還を実現して日ソ平和条約を締結し、恒久的日ソ友好関係を樹立したい」と語りました。

7月13日

1998年(平成10年)
キリエンコ首相訪日

ロシアの首相としては初めてキリエンコ首相が訪日しました。
同首相は四島の島名(択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島)を具体的に列挙して解決すべき領土問題とした、「東京宣言」を遵守するという、ロシア側の姿勢を改めて明らかにしました。

1970年(昭和45年)
衆議院内閣委員会一行が北方領土視察

衆議院内閣委員会の一行が北方領土視察のため来根、また、沖縄・北方対策庁北方課長及び北方領土問題対策協会会長らも視察のため来根しました。

7月14日

1973年(昭和48年)
北方領土の最高峰国後島の爺爺岳(ちゃちゃだけ)噴火

国後島の爺爺岳が、約160年ぶりに大爆発を起こし、付近を航行中の漁船が次々に茶褐色の灰を浴び、大騒ぎになりました。
空に立ち上る噴煙は風に流され、根室・釧路管内にまで灰が降り被害を及ぼしました。この当時は四島との交流もなく被害の詳細は不明でした。

爺爺岳…北方領土の最高峰で標高1,822メートル(『北方領土 今日は何の日?』発行時)

7月15日

1945年(昭和20年)
根室が米軍艦載機による攻撃を受ける

第二次世界大戦終戦のちょうど1ヶ月前、千島方面守備の重要拠点であった根室町(当時)は、米軍艦載機の空襲を受け市街の8割を焼失しました。
罹災者約1万1千人を数え、戦災救助活動に全力を傾けている時に終戦を迎え、茫然としている間にソ連軍は千島列島への攻撃を開始。さらに択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の北方領土の島々を占領しました。

7月16日

1930年(昭和5年)
ビール瓶500本を放流し、海流調査

北海道庁の千島調査隊は、海流調査のためこの日から5ヶ所でビールの空き瓶500本を放流。瓶には見つけ次第連絡を乞う旨、和英両語で記載してありましたが、1件の連絡もありませんでした。

1991年(平成3年)
ロンドン・サミット開催

ロンドン・サミットが開かれ、議長声明は「我々は新たな国際協力の精神が、欧州におけると同様アジアにおいても十分に反映されることを希望する。北方領土問題の解決を含む日ソ関係の完全な正常化は、このことに大きく寄与するであろう」と述べました。
北方領土問題に関する国際的認識の高まりは、こうしたサミット文書に北方領土が言及されたことにも示されています。

7月17日

1972年(昭和47年)
大平外相、トロヤノフスキー駐日大使と会談

大平外相は外務省にトロヤノフスキー駐日ソ連大使を招き、日ソ関係について会談を行いました。会談では「日ソ平和条約」交渉の予備交渉を開始することに合意しました。
これはこの年1月の日ソ定期協議で合意をみた「年内に日ソ平和条約交渉を開始する」という線に沿って同交渉の前に予備交渉を行うことで一致したもので、翌年の田中・ブレジネフ会談の足がかりとなりました。

7月18日

1849年(嘉永2年) 旧暦5月29日
択捉を探検中の松浦武四郎「フウレベツ」から「ナイホ」に到着
幕末の北方探検家松浦武四郎が3回目の蝦夷地探検で北方領土へ渡り、この日択捉島のフウレベツからナイホに到着しています。これらの記録は「三航蝦夷日誌」としてまとめられています。

※松浦武四郎は、「北海道」の名付け親としても知られています。

7月19日

1967年(昭和42年)
北海道知事ら、三木外相に「北方領土返還の要望書」を提出

北海道知事、千島歯舞諸島居住者連盟、北方領土復帰期成同盟らは、翌日からの三木外相の
訪ソを前に「北方領土返還の要望書」を提出しました。
三木外相は翌日からモスクワでコスイギン首相らと会談、コスイギン首相は「ソ連政府も平和条約の締結を希望している」とし、さらに「中間的なもの」をつくる可能性の検討を呼びかける注目すべき発言を行っています。

7月20日

1988年(昭和63年)
中曽根前総理訪ソ

中曽根前総理(当時)が訪ソし、ゴルバチョフ書記長と会談しました。
ゴルバチョフ書記長は、「戦後の現実から出発しなければならない。1956年にはソ連はその当時の現実を勘案し、善意によって二島を返還しようとの立場をとった。しかし日本は四島の返還を要求した」と述べました。
 

7月21日

1998年(平成10年)
道立北方四島交流センター(ニ・ホ・ロ)起工式

小池道議、若狭道議、佐野北海道北方領土対策本部長、大矢根室市長はじめ根室管内4町の代表や北方領土返還運動関係者ら約50人が出席し、道立北方四島交流センターの建設を祝うともに工事の安全を祈願しました。
              
1977年(昭和52年)
藤田総務庁長官、北方領土視察のため来根

北方領土視察のため来根した藤田総務庁長官は、洋上から視察したあと元島民や地元関係者らと懇談し「すぐ向こうに北方領土があることを実感として身近に感じた。四島一括返還を貫く」と語りました。
総務長官としては8人目の視察でした。

7月22日

1947年(昭和22年)
北海道議会マッカーサー元帥に懇請

北海道議会は「歯舞諸島、色丹島および択捉島ならびに国後島の日本領土返還に関する請願」を決議してマッカーサー元師に懇請しました。
 これは全国の都道府県議会、市町村議会における北方領土返還に関する最初の決議です。

1967年(昭和42年)
「第1回日ソ定期協議」開催

三木外相が訪ソし、「第1回日ソ定期協議」が開催されました。
コスイギン首相は「北方領土問題について中間的なものを作る可能性を両国で検討してみてはどうか」と提案。これに対し我が国は、北方四島は日本固有の領土とし、日本に返還されるべきとの従来の立場を堅持しました。
 

7月23日

1958年(昭和33年)
「社団法人千島歯舞諸島居住者連盟」発足

内閣総理大臣認可の公益法人として「社団法人千島歯舞諸島居住者連盟」が発足しました。
これは、昭和30年に結成された「千島列島居住者連盟」を中心に、根室市にあった「千島引揚同胞援護会」、「色丹帰住対策協議会」等の北方領土元居住者団体の大同団結が図られ、北方地域元居住者を会員とする全国唯一の島民団体であることを条件として認可されたものです。

7月24日

1951年(昭和26年)
「サンフランシスコ講話会議」出席を受諾

日本政府はサンフランシスコ講和会議への正式招請状を受け、この日、会議に出席することを回答しました。
吉田茂首相は自ら首席全権として出席することとし、挙国一致で全権団を構成するため、蔵相池田勇人、自民党星島二郎、国民民主党苫米地義三、緑風会徳川宗敬、日銀総裁一万田尚登を団員に選びましたが、社会党からは参加を得られませんでした。
その後わが国は、9月8日に「サンフランシスコ平和条約」に調印しました。

7月25日

1980年(昭和55年)
「北方館」竣工

納沙布岬の望郷の岬公園内に「北方館」が竣工しました。
北方領土問題対策協会が北方領土問題について認識を深め一層の国民世論の高揚を図るため昭和54年7月から建設していたもので、8月1日から一般公開されました。

7月26日

1945年(昭和20年)
「ポツダム宣言」署名

米国、中国、英国の3国首脳がポツダム宣言に署名しました。
ポツダム宣言には、「カイロ宣言の条項は履行されなければならず、また日本国の主権は本州・北海道・九州および四国ならびにわれらの決定する諸小島に限らなければならない」と述べられています。
日本はこのポツダム宣言がカイロ宣言の「領土不拡大」の原則を引き継いでいることから受諾したものであり、またソ連も領土不拡大の原則を認めたものと解されます。

7月27日

1985年(昭和60年)
望郷ラインサイクリング大会開催

北方領土を望む美しい自然に恵まれ、また味覚も豊富で魅力ある根室地域に多くのサイクリストを招き、北方領土の1日も早い復帰と国民世論の啓発を図ることを目的として、「第1回北方領土返還祈願望郷ラインサイクリング大会」が行われました。
27日、28日の両日、羅臼町から納沙布岬までの全長172.3キロメートルのコースで行われ、小学校5年生から70歳までの男女200名が参加しました。

7月28日

1970年(昭和45年)
北連協「北方領土の日」設定について合意

北方領土問題連絡協議会(北連協)が総会で「北方領土の日」設定について合意しました。
その後、北連協は北方領土復帰期成同盟などの団体と制定運動を続け、この結果昭和56年1月6日の閣議で毎年2月7日を「北方領土の日」に設定することが決定されました。
「北方領土の日」は北方領土に対する国民の関心と理解を深め返還要求運動を全国的運動に高めるため設定されたものです。

7月29日

1966年(昭和41年)
「日ソ領事条約」調印

「日ソ領事条約」が調印されました。
これに基づき、領海規制の侵犯を理由とした日本国民逮捕(拘禁)についての在ソ日本大使館領事部への通報は、逮捕(拘禁)の時から10日以内に行わなければならないこととされ、また札幌市とナホトカ市に領事館を設置することも決められました。

7月30日

1951年(昭和26年)
水産庁長官に「講和条約直後から漁業監視船配置」を陳情

北海道附属嶋嶼復帰懇請委員会会長安藤石典は、水産庁長官藤田巌あてに講和条約発行直後は速やかに漁業監視船を配置するように陳情しました。
これは、ソ連によるだ捕強化を懸念したものです。

7月31日

1956年(昭和31年)
日ソ国交回復交渉「第1回全体会議」開催

日本側から全権重光外相、松本衆議院議員、ソ連側から全権シュビーロフ外相が出席し、日ソ国交回復「第1回全体会議」がモスクワで開催されました。
重光外相は、両国間の関係を正常化するにあたっては領土問題をまず日ソ両国の間に明白にするべき、との声明を発表しました。

この記事に関するお問い合わせ先

北方四島交流センター

〒087-0037
北海道根室市穂香110番地9

電話番号:0153-23-6711 ファックス:0153-23-6713

北方四島交流センターへのお問い合わせはこちら


更新日:2022年02月03日