2月
2月
2月1日
1885年(明治18年)
択捉島振別村に、初の郵便取扱所設置
択捉島振別村に初の郵便取扱所が設置されました。振別郵便取扱事務所と称され、翌年5月25日に振別郵便局と改称されました。
択捉島内では、明治21年には2局、26年には5局が設置されました。
明治のはじめから20年頃まで、千島方面への郵便物は各漁場の請負業者が僅かな手当で義務的に取り次ぎや配達をしており、配達といっても交通が不便なため月に2、3回程度郵船が入港すると島民は漁舎へ郵便をもらいに行く慣わしでした。漁舎には多数の漁夫が入ってきていたので、請負漁舎あてのものが大半でした。
2月2日
1946年(昭和21年)
南樺太、千島列島(北方領土を含む)のソ連領編入宣言
ソ連政府は最高会議幹部会令を発し、南樺太、千島列島(北方領土を含む)をソ連領に編入すると宣言し、その効力発生時期を昭和20年9月20日に遡及させるものとしました。
以後、北方四島住民の本道への脱出は困難となりました。
ソ連は前年の8月8日に日ソ中立条約を一方的に破棄し日本に宣戦布告。終戦3日後の8月18日から9月5日までに千島列島及び北方領土を占領しました。
2月3日
1966年(昭和41年)
北海道各地で北方領土返還要求
100万人署名運動を開始
千島歯舞諸島居住者連盟が主体となって、北方領土返還要求100万人署名運動を開始しました。
同連盟は北方領土問題の理解と認識が一般国民に普遍化されていないことを憂慮し、会員自ら署名運動に取り組み、続いて全国規模の運動とするため青年団体、婦人団体の決議を取りつけ、昭和46年度には1,362,500人の署名を得ました。
昭和47年3月28日に全国規模の参加団体による請願団体を編成し、政府、国会に
100万人署名を添えて請願と要望を行いました。
2月4日
1968年(昭和43年)
北方領土早期返還促進地方住民大会開催
この時期、日ソ領事条約の締結、佐藤首相による所信表明演説での北方領土問題への言及など、領土問題への国民の関心が高まり始めたことから、これを一層確かなものにしようと「北方領土早期返還促進根室地方住民大会」が開催されました。
会場となった根室漁協には900名が集まり、「返還が日ソ平和条約の締結と同時に実現するよう要望」すると決議しました。
1987年(昭和62年)
根室市、日ソサケマス交渉の早期妥結を駐日大使に緊急要望
根室市の白崎大助役は、日ソサケマス交渉の早期妥結をソロビヨフ駐日ソ連大使に緊急要望しました。
2月5日
1960年(昭和35年)
「ソ連の1月27日付対日覚書は、日本に対する不当な内政干渉である」
ソ連のグロムイコ外相が1月27日、日米新案保条約を非難する対日覚書を手交し、在日外国軍隊が撤退しない限り歯舞、色丹島を引渡さないと通告してきたことに対し、この日、日本政府は、日米の新条約と2島の引渡し問題を関連させることは不可解と反論。
日本に対する不当な内政干渉であるとの回答覚書を駐日ソ連大使に手交しました。
2月6日
2000年(平成12年)
北方四島交流センター(ニ・ホ・ロ)開館記念式典
北海道立北方四島交流センターの開館記念式典が同センターで開催され、知事や道議会代表、北方領土返還要求運動関係者等約180人が出席しました。
関係者を代表して堀知事、藤原根室市長、「ニ・ホ・ロ」愛称受賞者の近藤さん等8人がテープカットを行いました。前駐ロシア特命全権大使都甲岳洋氏の講演や映画「四島の海と大地から」のお披露目上映も行われました。
2月7日
1855年(安政元年) 旧暦12月21日
日ロ通好条約締結
現在の静岡県下田市で日ロ通好条約を締結。択捉島とウルップ島の間を日露両国の国境と定めたものです。
なお、昭和56年には閣議了解により、条約が結ばれたこの日を記念し、毎年2月7日を「北方領土の日」とすることが決定されています。
2000年(平成12年)
ニ・ホ・ロ開館!
北方領土の早期返還をめざす拠点施設、道立北方四島交流センター(ニ・ホ・ロ)が開館しました。
2月8日
1969年(昭和44年)
「多楽島壮青年連絡協議会」設立
多楽島引揚者により「多楽島壮青年連絡協議会」が設立されました。
その後、この会は発展的に解散し、先に設立されていた多楽同志会とともに昭和47年2月8日付けで現在の多楽会を設立しました。
多楽会は、数十もあるといわれる旧島民の会の中でも最も活発に活動を続けている会の1つです。
2月9日
2000年(平成12年)
ニ・ホ・ロで「ミレニアムコンサート歌から始まる四島交流」開催
2月7日に開館したニ・ホ・ロで、初のイベント「ミレニアムコンサート歌から始まる四島交流」が開催されました。
1992年のビザなし交流から通訳をつとめてきた高橋由紀子さんが「北方四島こぼれ話」と題する講演、その後ロシア人歌手オリガ・ヤコブレワさんのコンサートが行われました。オリガさんは、テレビドラマ「青の時代」のテーマ曲「ポーリュシカポーレ」など5曲を透き通るような声で歌い、「私の心に映っている故郷、ノボシビルスクの自然を感じていただけましたか」と日本語で挨拶しました。
2月10日
1969年(昭和44年)
北方領土引揚者により「専用漁業権補償獲得推進委員会」設立
北方領土引揚者により「専用漁業権補償獲得推進委員会」が設立され、これらの会が構成団体となって1972年(昭和47年)2月4日に現在の北方地域漁業権補償推進委員会が設立されました。
2000年(平成12年)
国後島にディーゼル燃料提供
1998年(平成10年)からわが国は一般的な緊急人道支援を拡大するこことし、この日国後島にディーゼル燃料1500トンを供与しました。
2月11日
1945年(昭和20年)
「ヤルタ協定」署名
ソ連(現ウクライナ)の黒海に面した保養地ヤルタに集った連合国首脳は「ヤルタ協定」に署名しました。
ソ連の対日参戦と引き換えに「千島列島」をソ連に引き渡すことを約束した秘密協定で、翌年2月まで公開さえされませんでした。
また、米英ソ3カ国首脳が署名していますが、この署名には肩書きがなく、単にルーズベルト、チャーチル、スターリンの個人名が記載されるという異例のものでした。
このような秘密協定に日本が拘束されることはなく、署名国の一員である米国でさえこの協定の法的効果を否定しています。
2月12日
1972年(昭和47年)
「第1回北方領土返還促進のつどい」開催
東京の虎の門ニッショー・ホールで600人が参加して初の「北方領土復帰促進のつどい」が開催されました。
主催したのは、北方領土問題対策協会、北方領土復帰期成同盟、千島歯舞諸島居住者連盟の3団体で構成する北方領土復帰促進のつどい実行委員会です。
2月13日
1998年(平成10年)
国後島に自航式はしけの供与
港湾施設の整備が遅れている国後島に自航式のはしけ「希望丸」を贈りました。
北方領土へは元島民や返還運動関係者等しか入域できないこととされています。しかし、1994年の北海道東方沖地震が四島にも大きな被害をもたらしたことから、政府はこれに対する人道支援のための入域枠組みを新たに設定しました。
希望丸の供与も、この枠組みによって行われたものです。
2月14日
1957年(昭和32年)
日ソ漁業委員会第1回会議開催
ロシア200カイリ水域内における日本漁船の操業条件と、日本200カイリ水域内におけるロシア漁船の操業条件を決定する「日ソ漁業委員会」の第1回会議が開催されました。
ソ連がロシアに変わったのにともない、現在は「日ロ漁業委員会」と名称を変えています。
2月15日
1984年(昭和59年)
安倍・グロムイコ会談
アンドロポフ書記長の葬儀出席のため、ソ連を訪問していた安倍外務大臣は、この日グロムイコソ連外務大臣と会談し、北方領土問題について話し合いました。
この当時、ソ連の指導者が短期間に相次いで死亡してソ政の政情が揺れ動いていた時期であり、領土問題で特に進展はありませんでした。
2月16日
2001年(平成13年)
海上保安部長、ニ・ホ・ロ視察
第1管区海上保安部長が北海道立北方四島交流センターを視察しました。
海上保安庁幹部によるセンター視察はこれがはじめてのことです。
2月17日
2001年(平成13年)
橋本沖縄北方対策大臣がニ・ホ・ロ視察
橋本龍太郎沖縄北方対策大臣が来根、ヘリコプターから北方領土を視察しました。
ニ・ホ・ロでは地元関係団体の要望会が開かれ、橋本大臣は「領土問題解決に全力を尽くすが、皆さんの根強く幅広い運動が大切だ」と述べました。
1977年(昭和52年)
大丸神戸店で「北方領土展」開催
神戸市の大丸神戸店で「北方領土展」が開かれ、6日間で約3万人が集まりました。
2月18日
1969年(昭和44年)
第61国会で有田欧州局長が北方領土問題について述べる
「日ソ共同宣言の調印後10年になるが、遺憾ながら北方領土(中略)は進展がなく、満足な解決を見ていない」と、第61国会で外務省有田欧州局長が説明しました。
2月19日
1999年(平成11年)
「ロシア・極東ニュース」がサハリン州に、飢餓の心配はないと報じる
ニューズレター『ロシア・極東ニュース』誌はこの日、州政府高官の発言として「中央紙は春ごろロシアは飢餓に陥る恐れがあると報じているが、サハリン州に飢餓の心配はない」と報じました。
当時の同州の食糧事情が伺われます。
2月20日
1972年(昭和47年)
「望郷の家」竣工
北方領土に関する国民の関心が高まり、納沙布岬を訪れる人々が増加していることから、納沙布岬に「望郷の家」が建設されました。
納沙布岬は根室半島の最東端にあり、暖流と寒流が交錯して、特に夏の間は濃霧が発生して北方領土の島影がまったく見えなくなることがあります。
このため岬を訪れる人が霧の日でも領土問題を理解できるよう、多くの資料を展示したものです。
2月21日
1956年(昭和31年)
「歯舞諸島対策委員会」結成
日ソ国交回復交渉により、色丹・歯舞の返還の可能性が高まったと考えられたことから、返還後の復興問題を検討するため歯舞村(現在の根室市歯舞)に「歯舞諸島対策委員会」が結成されました。
この年10月には、日ソ共同宣言が署名され国交が回復。ソ連は歯舞、色丹の引き渡しを約束しましたが、いまだに占領を続けています。
2月22日
1966年(昭和41年)
初の「北方領土資料展」開催
札幌の丸井今井百貨店で、北方領土復帰期成同盟主催の初の「北方領土資料展」が開催され、6日間で5万人が入場しました。
これを機に毎年全国各地で開催されるようになり、平成14年度までに39回を数えています。
2月23日
1971年(昭和46年)
愛知外相が四周海域について述べる
この年1月から開始された北方海域安全操業日ソ交渉で、ソ連側から示された歯舞色丹水域のみ操業を認めるとの提案に対し、愛知外相は衆議院予算委員会第二分科会で「北方四島周辺海域が望ましい。しかし、すみやかに解決してほしいという地元の要望もあるので、その意を体して第2回交渉の対処方針を決めたい」と述べました。
2月24日
1977年(昭和52年)
200カイリ漁業水域規制実施を決定
タス通信は、ソ連邦大臣会議が日本固有の領土である北方四島周辺水域を含む200カイリ漁業水域に、3月1日から規制を実施することを決定しました。
2月25日
1977年(昭和52年)
官房長官談話発表
日本政府は、2月24日のソ連側の一方的措置(北方四島周辺水域を含む200カイリ漁業水域の規制)を批判する官房長官談話を発表しました。
対象水域はわが国固有の領土であり、日ソ平和条約交渉においてその一括返還を求めている北方四島の周辺水域が含まれていることは極めて遺憾であり、これを認めることはできないとの内容です。
2月26日
1977年(昭和52年)
日本外務省は在京ソ連大使に抗議
前日の官房長官談話に引き続き、この日、外務省は駐日ソ連大使に対し、200カイリ規制を四島周辺水域にも適用するとのソ連邦大臣会議決定について抗議しました。
2月27日
1998年(平成10年)
「根室市北方領土問題協議会」発足
根室市内の北方領土返還要求運動団体、経済界、行政機関等が北方領土に関する諸問題について協議検討することを目的に「根室市北方領土問題協議会」を設立しました。
同協議会には現在13団体が参加しています。
2月28日
1956年(昭和31年)
「領土復帰北方漁業対策本部」設置
北海道庁の機構の中に「領土復帰北方漁業対策本部」が設置されました。この後、数回の組織改正を経て、現在は「北方領土対策本部」となっています。
全国の都道府県の中で、北方領土問題を専掌するセクションを持つのは北海道だけです。
2月29日
1988年(昭和63年)
香川県で「北方領土パネル展」開催
この日から3月5日までの6日間、香川県婦人会館で「北方領土パネル展」が開催されました。
香川県北方領土返還促進協議会が「考えよう知ろう語ろう北方領土」をテーマに返還要求啓発県内キャラバン隊の派遣、講演会の開催と組みあわせて開催したものです。
香川県は、昭和初期から歯舞群島や色丹島にかけての海域へサケマス漁に出漁していたという土地柄もあり、パネル展会場は連日多くの見学者で賑わいました。
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更新日:2022年02月03日