ラクスマンの根室来航

1792年9月24日、ロシア最初の遣日使節アダム・ラクスマン一行は、帆船エカテリーナ号でオホーツク港を出港し、同年10月20日に根室に入港しました。

冬が近づいていたのでエカテリーナ号を弁天島につけ、乗組員42名は上陸して家を建て、翌年6月15日までの8カ月間、根室で過ごしました。(年月日は全て現在の西暦に換算しています)。

当時の根室には、松前藩の役人・商人 ・アイヌの人々らが数十人住んでいました。ラクスマンは漂流民の返還の名のも とに、通商交渉と来航目的を告げ、日本側は直ちにこの事実を松前に知らせました。

すぐに松前藩と江戸幕府から、根室へ交渉の役人らが着きましたが、本交渉は松前で行われました。

 

江戸時代の日本とロシア

江戸時代の日本は、長崎で中国とオランダなどと交易があり、その他の国とは通商関係を結んでいませんでした。法律で、日本人が外国に行くことも禁止されていましたが、漂流してしまった場合、外国から送り返される例が何度かありました。
当時のロシアは、エカテリーナ2世が強大な力を持ち、シベリアでの毛皮生産を増やすことが、重要な課題でした。そのために、シベリアに近い日本と交易し、シベリアへ食糧などを送るためのルートを確保しようと考えていました。

 

漂流民大黒屋光太夫

天明2年12月(1783.1)に、伊勢白子港(三重県鈴鹿市)から、江戸(東京)に向けた、船頭大黒屋光太夫(幸太夫とも書く)ら17人を乗せた神昌丸が、出港しました。

ところが、途中で嵐にあい、7カ月も漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着しました。光太夫らは、この島で4年間過ごし、ロシア人と共同して船を造りカムチャツカに脱出。さらにオホーツクからイルクーツクに送られ、日本語教師になるよう要請されましたが、あくまで帰国を希望し、ここで会った学者であり実業家であるキリル・ラクスマンの尽力により、ペテルブルグまで行き、エカテリーナ2世に謁見し、帰国が許されました。光太夫らは、キリルの息子アダム・ラクスマンがロシア初の遣日使節の一員として、同行することになりました。

エカテリーナ号

俄羅斯舩之図(根室市指定有形文化財):ラクスマンが乗ってきたエカテリーナ号を描いたもの

 

オホーツク港から根室に着いたとき、17人は光太夫・磯吉・小市の3人になっ ていました。12人は途中で次々に死んでしまい、2人はイルクーツクに残りました。 小市も根室に着いて亡くなりました。白子港を出て、根室に着くまで、実に10年と いう歳月でした。光太夫と磯吉は、松前で日本側が受け取り、その後江戸で暮らしました。

 

根室でのラクスマンたちの暮らし

根室での8カ月間は、ロシアと日本と情報交換の場でもありました。日本側では、日本で最初のロシア語辞典を作成したり、エカテリーナ号の模型を作ったり、ロシアの地図を写し地名を聞き取ったりしました。ラクスマンらも、日本の地図を写し、植物・鉱物を採集し標本にしたり、根室港周辺を測量したり、アイヌの人々と日本商人らの関係を聞き取ったりしました。

また、蒸し風呂を造ったり、結氷した根室港でスケートをしたりしました(これは日本で最初のスケートでした)。根室は、ロシア語研究の最初の地であり、ロシアの地理などの知識を受け入れた最初の場所でもあったのです。

流氷の入った根室港 

流氷の入った根室港。奥はエカテリーナ号が停泊した弁天島

ラクスマンの根室来航の歴史的意義

日本史上では、ラクスマンの来航は、江戸幕府の外国に対する通交・通商政策、国防政策などを方向づけた、重要な出来事です。この時は、老中松平定信が幕府の実権を握っていました。定信の前の田沼意次は、蝦夷地を開発してロシアと 交易しようとも考えていましたが、定信は対外関係に対しては慎重でした。

しかし、ラクスマン来航によって、北方に強い関心を示すことになります。 大黒屋光太夫と磯吉は、江戸の薬草園で生涯を送りましたが、蘭学者などと交流があ り、日本の洋学の発展に大きく貢献しました。

世界史上では、この直前にフランス革命が起こり、ロシアは直接的な影響を受けませんでしたが、ロシアのヨーロッパへの武力進出、パーベル1世暗殺などがあり、ラクスマンがつくった日本との交渉の道すじは、1804年のレザノフの長崎来航まで生かされませんでした。

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更新日:2018年03月01日