12月

12月

12月1日

1945年(昭和20年)
安藤石典根室町長、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥に陳情

日本固有の領土である北方四島を武力占領し、住民の家宅捜索や金品の掠奪、銃殺などソ連軍の不法占領によるトラブルが相次いだのに対して、当時の根室町長安藤石典が連合国軍最高司令官マッカーサー元帥に対し、北方領土をアメリカ軍の保障占領下に置いて、島民が安心して生業に就くことができるようにしてほしいと陳情しました。
この陳情が北方領土返還要求運動の出発となりました。

12月2日

1903年(明治36年)
国後・択捉海岸線の改正

海軍水路告示第1441号に「36年荒畑海軍水路監らの実測により、国後島東部海岸線のほとんど、および北岸の総状、さらに択捉島西端の海岸線を別紙貼付図のごとく改正す」とあるように、明治政府は緻密な北方領土測量を行っていました。

12月3日

1979年(昭和54年)
標津町に「北方領土館」オープン

北方四島の1つ、国後島を目の前に望む北海道標津郡標津町に「北方領土館」がオープンしました。
この北方領土館は、地元標津町の小野幸三町長が地元住民の先頭に立ち、町をあげて国などに建設の陳情を行った結果、北方領土復帰期成同盟が総工費全額国庫補助を得て、この年の6月に着工、完成と同時にオープンしたものです。
館内には北方領土関係の貴重な資料が展示され、国後島を展望することができます。

12月4日

1906年(明治39年)
志発島に特別教授場(小学校)が開設される

歯舞群島の志発島に特別教授場が開設されました。
志発島には2つの小学校があり、そのうち志発小学校は、華岬尋常小学校付属特別教授場として始まり、32坪の校舎は島民の寄付によるものでした。明治末年の児童数は22人でした。
昭和14年3月末に志発尋常高等小学校となり、昭和16年には国民学校となりました。
終戦当時(昭和20年8月15日)の校舎は81坪、児童数は4学級167人でした。
歯舞群島には、当時分教場も含め7つの国民学校があり、831人の児童がいました。

12月5日

1973年(昭和48年)
中国大使北方領土視察のため来根

この日の夜、釧路から根室入りした陳楚駐日中国大使は、参事官ら大使館関係者など10名とともに、6日朝根室市役所を表敬訪問し、助役や経済関係者等と会談しました。
予定時間を大幅に延長して熱心に事情聴取した陳大使は、「北方領土の返還は、日本国民の悲願であり正義です。中国人民はこの正義を支持します」と述べ返還要求運動に理解を表明しました。
その後、納沙布岬から北方領土を視察しました。

12月6日

1957年(昭和32年)
日ソ通商条約・貿易支払協定附属書調印

日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間の貿易関係の発展促進のため「日ソ通商条約」に調印しました。
これは、平和条約締結後には歯舞、色丹2島を引き渡すとした「日ソ共同宣言」第7項に基づくものです。

12月7日

1974年(昭和49年)
報道人懇談会が「北方を語る会」を結成

北方領土を視察した報道関係者で組織した報道人懇談会の第2回会合がこの日、東京で開かれ会の名称を「北方を語る会」に決定しました。
報道人の立場から北方領土の早期返還PRに協力しようと発足したものです。

1974年(昭和49年)
初の「ソビエト友好展」根室で開催

隣国ソ連をさらに理解し、友好親善を深めようと根室日ソ友好親善協会、根室日ソ友好協会、根室ユネスコ協会、根室市が共催しての初の「ソビエト友好展」が根室市公民館で開かれました。

12月8日

1980年(昭和55年)
衆議院沖縄・北方問題特別委員会一行北方領土を視察

衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会一行が、北方領土の実情視察のため根室市を訪れ、納沙布岬から北方領土を視察、その後地元関係者から事情聴取しました。
小沢貞孝委員長は、腰をすえた外交交渉を粘り強く続ける努力が必要で、そのためには根室地域の振興対策、元居住者の救済援護措置などの実現、また総理の現地視察を強く政府に要請すると語りました。

12月9日

1994年(平成6年)
色丹島の小中学校に救援物資贈る

この年の10月4日に発生した北海道東方沖地震で大きな被害を出した色丹島の小中学校にストーブや食器などを贈ろうと、根室日ロ親善協会が日ロ協会(本部・東京)や道日ロ協会を通じて呼びかけ、全国から集まった救援物資をこの日、花咲港でロシアのカニ運搬船に積み込みました。
ビザなし交流などで色丹島斜古丹の小中学校長と交流のある根室日ロ親善協会に寄せられた手紙で、子供たちの窮状が伝えられたため、毛布や石油ストーブ、学用品など約7,800点を学校と子供向けに贈ったものです。

12月10日

1958年(昭和33年)
日ソ協会根室支部設立

日ソ両国民相互の理解と親善をはかり世界平和に寄与することを目的に、日ソ協会根室支部が設立されました。
日ソ平和条約締結促進と文化・経済交流を活発にしようのスローガンを掲げ、根室劇場を会場に開かれた結成大会には200名を越す賛同者が詰めかけ、関心の深さを物語りました。

1965年(昭和40年)
北方資料館落成

社団法人北方領土復帰期成同盟ら関係者およそ100人が出席して、北方資料館の落成式が行なわれました。

12月11日

1949年(昭和24年)
北海道附属嶋嶼復帰懇請委員会の岸田会長ら上京
北海道附属嶋嶼復帰懇請委員会が集めた一千数百名分の署名を携え、岸田会長(根室町長)ら陳情団が復帰懇請運動のため上京しました。
岸田会長ら一行は、直ちに関係方面への運動を始め、およそ一週間にわたり外務省や連合国軍総司令部、国会などへ懇請を行いました。

12月12日

1956年(昭和31年)
「日ソ共同宣言」の批准書交換

この年の10月19日にモスクワで署名され、平和条約締結後に歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意する、とした「日ソ共同宣言」が12月5日の国会承認、7日の内閣批准を経て、この日、批准書を交換し発効しました。

12月13日

1961年(昭和36年)
北方領土問題について米国務省声明発表

米国務省は、日ソ間の北方領土問題について「日本の立場は確固たる事実にもとづくものであり、法的にも正しいと信ずる」、「アメリカはこれまで国後、択捉両島が日本固有の領土であるとの見解をしばしば明らかにしてきた」との声明を発表しました。

12月14日

1906年(明治39年)
水晶教育所が開設される

根室の谷亀次氏が、校舎や校具などを寄贈して歯舞群島水晶島に教育所が開設され、大正7年9月に開校した水晶尋常小学校の基となりました。
明治の終わり頃の児童数は14人。大正15年4月にこの校舎は全焼しましたが、冬に入ってから新校舎が落成しました。
歯舞群島では一番早く開設された教育施設で、翌年には志発島に、その翌年の明治41年には多楽島にも同様の教育施設が開設されました。

12月15日

1961年(昭和36年)
北方協会設立

「北方地域旧漁業権者等に対する特別措置に関する法律」に基づきこの日、「特殊法人北方協会」(のちの特殊法人北方領土問題対策協会)が設立されました。
この協会は、旧漁業権者及び元島民を対象として事業資金・生活資金の貸し付けを行うとともに、調査研究、啓もう宣伝等の業務を行っています。

1928年(昭和3年)
国後島代々別に特教場設立される

明治28年に開設された国後島の植内尋常小学校から分かれて、同島代々別に特別教授場(小学校)が設けられました。
四島では明治8年頃から私塾ができ、同13年には国後島泊村と択捉島紗那に小学校が設けられています。

12月16日

1807年(文化4年)
択捉島襲撃事件の不手際で松前奉行罷免

択捉島をめぐり幕府を震撼させた最大の事件といわれる、文化4年5月のロシア船による択捉島紗那会所等の襲撃事件の不手際や、幕府への虚偽報告などにより羽太正養(はぶとまさやす)は松前奉行を罷免されました。
「蝦夷のうらにうち出(いで)見ればまごつきの武士のたわけのたけもしれつつ」は当時の狂歌。

1892年(明治25年)
門馬豊次、根室に到着

慶応義塾大学を卒業したばかりの門馬豊次が根室毎日新聞入社のため根室に到着。
門馬はこの後、数回にわたって千島に渡り、同紙に「千島周遊記」「千島再航誌」などを連載しました。

12月17日

1999年(平成11年)
国後、色丹島にディーゼル燃料を供与

北方四島住民に対する政府の緊急人道支援の一環として、国後島と色丹島に越冬用のディーゼル燃料(軽油)1,000トンを運ぶ支援団が根室の花咲港を出港、17日朝、国後島の古釜布に到着しました。
両島には平成11年度中に、2,000トンを供与することになっており、8月と10月ですでに1,000トンが供与済みで、この3回目の1,000トンで燃料供与が終了しました。

12月18日

1956年(昭和31年)
国連総会は日本の国連加盟を全会一致で承認

国際連合総会は、12月12日の安全保障理事会の決定にもとづいて、全会一致で日本の国連加盟を可決しました。
日本が加盟を申請した昭和27年以来、安保理事会におけるソ連の拒否権によって加盟が妨げられてきましたが、10月の「日ソ共同宣言」で11年ぶりに日ソの国交が回復し、ソ連も日本の国連加盟を認めたものです。

12月19日

1979年(昭和54年)
小渕総務長官が北方領土視察

小渕総理府総務長官は、北方領土視察のため根室市入りして根室海上保安部の巡視船「いしかり」に乗船、洋上から北方領土を視察しました。
視察後、根室市公民館で地元関係者と懇談、北方領土の早期返還実現と当面の諸施策について、陳情を受けました。
翌日も早朝から納沙布岬に立ち、厳しい北方の海の現実を改めてかみしめ「北方四島一括返還実現に最大の努力」と決意を新たにしました。

12月20日

1956年(昭和31年)
根室町議会、政府関係大臣・駐日ソ連大使はじめ中央関係機関に決議文を送付

根室町議会は「日ソ平和条約までの暫定措置として歯舞諸島ならびに色丹島距岸0カイリ及び南千島(国後島択捉島)距岸3カイリの海域における漁業の実現」について決議し、政府関係大臣はじめ中央関係機関、駐日ソ連大使に決議文を送付しました。
また、根室地方沿岸漁業対策協議会、根室地方平和推進経済復興同盟、北海道附属嶋嶼返還懇請同盟、南千島返還懇請同盟の連名で政府に「ソ連邦政府に対し、平和条約が締結されるまでの間、色丹島、歯舞群島南千島海域で3カイリまでの入会操業が出来るよう、日ソ暫定漁業協定を締結されたい」との要望書を提出しました。

12月21日

1711年(正徳元年)
鹿児島藩の米を積んだ船頭次郎左衛門船、日向灘で漂流

10月23日に鹿児島藩の米657石(こく)を積んで大坂に向かった船頭次郎左衛門船が、この日、日向灘で「難風」に遭い漂流しはじめ、翌年4月に択捉島を発見、漂着しました。
島民とはあまり言葉が通じなかったが、「日本のきせる」を持って「たばこ、たばこ」と言うので、日本の煙草が交易品として入り喫煙習慣が定着しているので、ここは「日本の内」かと思ったといいます。

657石(こく)は、約100トンに相当します。

12月22日

1854年(安政元年)
日ロの第1回会談が下田の福泉寺で開かれる

プチャーチンと筒井肥前守、川路聖謨による日ロの第1回会談が下田福泉寺で行なわれました。
会議の冒頭プチャーチンは日本が通商を許可すれば、国境について択捉島の日本領有と、樺太の国境も若干譲歩すると告げました。
この会談が、後の「日ロ通好条約(下田条約)」締結に向けた第1回目の会議になったものです。
条約締結は、翌1855年2月7日(安政元年12月21日)のことです。

12月23日

1982年(昭和57年)
「北方領土返還要求3千万人署名運動推進会議」衆参両院に請願

北方領土返還要求運動を粘り強く続ける全国民の決意を具体的に国会に反映させるため、全国的規模で署名運動を推進している「北方領土返還要求3千万人署名運動推進会議」は、この日、大友よう全国地域婦人団体連絡協議会長を懇請団長に、過去1年間で集めた400万人の署名を添えて、衆参両院に復帰実現に関する請願を行いました。
また、この請願行動と同時に、堂垣内尚弘北海道知事を団長とする要請団一行も要請を行いました。

12月24日

1997年(平成9年)
1998年度道開発予算が確定、北方四島に渡航するチャーター船の大型化が認められる

1998年度道開発予算が確定し、北方四島に渡航するチャーター船の大型化が認められました。
これまでより約100トン大きい334トンクラスの船をチャーターできることとなり、船内の居住性が高まり渡航の安全性が改善されることになりました。

12月25日

1969年(昭和44年)
だ捕抑留漁船員大量釈放

ソ連は「日ソ関係の改善を考慮、日本人抑留漁船員41人を釈放、6人を減刑する」との通知とともに、この日、ナホトカ港で漁船員41人の引渡しを行いました。
27日には函館港に上陸、28日午後10時30分着の列車で家族の待つ根室に帰郷しました。このとき釈放された41人のうち36人が根室海域でだ捕された人々でした。
だ捕された年別では41年1人、42年4人、43年7人、44年8月19日以前にだ捕された人が14人でした。しかし、これだけの大量釈放にもかかわらず、まだ33人がソ連で正月を迎えざるをえませんでした。

12月26日

1884年(明治17年)
色丹島で児童3人に国語の授業

船改所出張官吏鈴木七郎氏は、同年7月北千島から色丹島に移住させた児童3人に対して国語の授業を行いました。
この日の日誌には「当日までに片仮名習い上げたるに付、大いに賞し、菓子を与え、今年けい古修めの儀を言い渡す」とあります。
また、これら移住者の子弟を根室に送り普通教育を授けたり、出張所の一隅を教室として読書、算術等を教えるなど児童教育の普及に努めました。

12月27日

1997年(平成9年)
在ハバロフスク総領事館サハリン出張駐在官事務所の開所式

在ハバロフスク日本総領事館サハリン出張駐在官事務所の開所式がユジノサハリンスク市内の同事務所で行われました。
ロシア極東ではハバロフスク、ウラジオストクに次ぐ在外公館で、日ロ平和条約交渉や大陸棚石油開発などで注目が集まる中、対サハリン外交の拠点となるほか、ビザ業務開始で北海道との交流が大幅に進むものと期待されました。

12月28日

1944年(昭和19年)
ブレイクスリーの覚書

ヤルタ会談を前に、アメリカの国務省は千島列島に関する明確な方針をたてるために、クラーク大学の政治学教授ジョージ・ブレイクスリーに同地域に関する覚書の作成を依頼しました。
同教授は、12月28日付で「ソ連へ歴史的にも人種的にも日本領である南千島を譲渡することは、将来の日本が恒久的解決として受容することを困難ならしめるような状況を作り出すことになろう」との内容の覚書を提出しました。

12月29日

1997年(平成9年)
小渕外務大臣の訪ロ日程決まる

この日、小渕恵三外務大臣が日ロ平和条約交渉のため、翌年2月21日から23日までモスクワを訪れ、プリマコフ外相らと会談することが固まりました。
前年11月に東京で行われたプリマコフ外相との会談では、両外相をトップに据えた新協議機関の設置で合意されており、1月の次官級協議を踏まえた初の外相協議として、平和条約締結問題日ロ合同委員会の共同議長間の初めての会合を行うことになります。

12月30日

1997年(平成9年)
北方四島周辺海域での日本漁船操業枠組み交渉妥結

北方領土周辺ロシア主張領海内での日本漁船の安全操業問題を話し合う日本とロシアの第13回政府間交渉がモスクワの外務省で開かれ、操業協定などの内容を最終確認、交渉開始からほぼ3年ぶりに実質妥結しました。
初年度の平成10年は、延べ45隻が出漁、総漁獲量2,252トンと決まり、日本政府は初年度に限り数億円の対ロ支援資金を、また北海道水産会は資源保護費として計3,500万円相当をそれぞれロシアに供与することが決まりました。

12月31日

1999年(平成11年)
エリツィン大統領辞任

ロシアのエリツィン大統領がテレビを通じて演説し「任期満了前に大統領を辞任することにした」と発表、同日付けで辞任したことを表明するとともに、大統領代行にプーチン首相を任命する大統領令に署名したことを明らかにしました。
エリツィン大統領は、領土問題を四島の島名を列挙してその帰属の問題であると位置づけ(東京宣言)たり、2000年までの平和条約締結に全力を尽す(クラスノヤルスク合意)ことに合意するなど、日ロ外交交渉に一時代を画したロシアの指導者でした。

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更新日:2018年03月01日