10月

10月

10月1日

1969年(昭和44年)
「北方領土問題対策協会」設立

北方領土問題の研究や啓発宣伝活動を推進するため、新たに法律をつくり国の特殊法人として北方領土問題対策協会が発足しました。これに伴い北方協会は解消され新協会が業務を引き継ぎ、引揚者の援護を行っています。
また、平成8年10月1日北方領土問題対策協会法の改正法が施行され、元島民及び旧漁業権者等に限られていた融資資格が一定の要件を満たして生前継承の手続きをとることによって子供や孫にも適用されることになりました。

10月2日

1969年(昭和44年)
北方領土返還促進キャラバン隊本州初派遣

昭和42年から根室市が派遣した北方領土返還促進キャラバン隊は2回目までは道内に、3回目はこの日から17日まで本州各地へ派遣されました。
北方領土返還問題に対する世論を全国的運動に発展させるために派遣したもので、根室市の青年20名が3台の車に分乗し、青森県や東京都、三重県伊勢市など1都12県12市を訪問。訪問地の代表者との懇談会や署名運動、街頭呼びかけなどを行いました。
本州方面へのキャラバン隊派遣は昭和45年度以降は北海道が、平成5年度からは千島連盟に引き継がれました。

10月3日

1998年(平成10年)
ビザなし交流で専門家交流大幅拡大方針を決定

政府はビザなし交流で99年度から教員、地質学者を派遣するなど「専門家交流」を大幅に拡大する方針を決定しました。
この年から本格的に始まった専門家交流は年を追うごとに範囲が広がり、教育をはじめ海獣、鳥類、植物、絵画など多岐にわたる、専門知識の交流が深められています。

10月4日

1994年(平成6年)
北海道東方沖地震発生

根室東方沖でマグニチュード8.1の地震が発生。根室管内はもとより北海道東部を中心に437人が負傷、家屋全半壊409戸など大きな被害をもたらしました。
震源地に近い北方領土の択捉島では死者と行方不明者10名と報じられました。

1982年(昭和57年)
桜内外相がソ連外相と会談

桜内外相はニューヨークでグロムイコソ連外相と北方領土問題について会談。日ソ共同声明で領土問題につき合意されたにもかかわらず解決されずに残っているこれらの懸案を話し合うよう促しましたが、ソ連側は、一貫して従来からの基本的立場を譲らず、話し合いは平行線をたどりました。

10月5日

2001年(平成13年)
北方四島水域サンマ漁、第三国操業認めず

北方四島周辺水域での韓国など第三国によるサンマ漁操業問題について、日ロ両国政府は、翌年から同水域での第三国操業を認めない方向で基本合意しました。
ロシア側は2001年に入ってから、我が国が主権を主張する北方領土周辺で大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国など第三国に入札制度で次々と漁獲枠を与えたことから、「日本の領土問題を侵害する」とする日本政府との間で深刻な外交問題に発展していたものです。

10月6日

1994年(平成6年)
「北方領土島民救援委員会」設置

北海道東方沖地震で被災した北方四島在住ロシア人を救援するため、北方領土返還要求運動連絡協議会(北連協)が島民救援委員会を設立しました。
北方領土返還運動に取り組んでいる青年・婦人団体等が連携して組織したもので、地震発生の翌日から精力的に情報収集、救助活動に取り組んでいました。
同委員会は、10月15、16日には国後島と色丹島(択捉島分については国後島に預ける)に大工道具、スコップ、食器、懐中電灯と替電池などの支援物資を引き渡しました。

10月7日

1973年(昭和48年)
田中首相がソ連を公式訪問

田中首相は、わが国の現職首相としては国交回復時の鳩山首相以来、17年ぶりにソ連を公式訪問しました。
翌日8日から10日までの3日間に計4回行われた首脳会談でブレジネフ書記長は「未確認の諸問題」の中には「四島の問題」が入っていることを認めました。また、再度田中首相が諸問題の中には「四つの島」が入っていることを確認したところ、結構ですと答えました。

10月8日

1979年(昭和54年)
ニューヨークで返還要求大会開催

米国のニューヨーク国連本部前広場で北方領土返還要求国際アピール委員会国連要請団(箭浪光雄団長)250人が返還要求とソ連の不法占拠の実態を世界に訴えました。
要請団は「北方領土」と染め抜いた揃いのハッピを着て、広場周辺をデモ行進し通行人たちに北方領土のパンフレットやビラを配り、またニューヨークタイムスに「日本はまだ占領されている」というアピール委員会の全面意見広告を掲載しました。
これらのアピールは米国内外のマスコミで大きく報道されました。

10月9日

1975年(昭和50年)
だ捕・抑留漁船員への「特別給付金」を閣議決定

北方四島周辺海域でだ捕・抑留された漁船員や船主に対する「特別給付金」が閣議で決定され、77億5千万円余りが補正予算に計上されました。
はじめての措置で、昭和21年から49年までに抑留された1,064隻、7,761人が支給対象とされました。

10月10日

1973年(昭和48年)
「日ソ共同声明」に署名

訪ソ中の田中総理大臣は、ブレジネフ書記長らと会談、「日ソ共同声明」に署名しました。
双方は1974年の適当な時期に両国間で平和条約の締結交渉を継続することに合意したものです。こうして、「領土問題は解決済み」と繰り返し主張してきたソ連との間に国交回復17年にして北方領土問題に関する平和条約交渉を継続することで両国最高首脳レベルで合意しました。

10月11日

828年(文政11年)
根室国後場所の請負人・初代藤野喜兵衛が没する

根室国後場所の請負人・初代藤野喜兵衛が没しました。
藤野家は、栖原角兵衛、伊達林右衛門と肩を並べる請負人。喜兵衛は、1806年に余市場所を請け負ったのを始め、1808年には宗谷、斜里の両場所を請け負って、1817年には高田屋嘉兵衛がおこした高田屋の没落後、この地の請負人となっていました。
松前有数の豪商として、松前藩に厚く信頼されていたといいます。

10月12日

1952年(昭和27年)
ソ連軍が米国機の勇留島侵犯を抗議

10月7日に米国の爆撃機B29を勇留島上空で撃墜したソ連軍は、この日米国機の勇留島侵犯を抗議しました。
これに対し米国務省は、ソビエト政府の不法行為が発生した地域を含む歯舞群島を日本から分離する法律上の効力を有する措置はいまだかつて執られていない。日本政府による北海道以北の領域の唯一の放棄は1951年9月8日の日本国と連合国との間の平和条約によってなされたのであるが、この条約の中で日本政府は、ここで提訴されているソビエト政府の不法行為のなされた地域に対する日本の主権を放棄しておらず、又この地域についてソビエト政府にいかなる権利も認めていない、とソ連の抗議に反論しました。

10月13日

1993年(平成5年)
日ロ関係に関する「東京宣言」署名

10月11日にエリツィン大統領がロシア元首として初めて公式に来日、翌日には細川首相と日ロ首脳会談、13日、日ロ関係に関する「東京宣言」に署名しました。
北方領土問題を北方四島の島名を列挙し、その帰属に関する問題であると位置付け、これまで両国の間で締結された文書や、法と正義の原則を基礎として解決することに合意しました。「東京宣言」を基礎に領土問題の解決のため一歩一歩前進することで日ロ双方が一致したものです。

10月14日

1991年(平成3年)
日ソ両国「外相間往復書簡」交換

中山、パンキン両外相はソ連外務省別館において外相会談を行い、「外相間往復書簡」を交換しました。
北方領土への訪問、北方領土からの訪問について旅券・査証なしで実施することに関する枠組みを決定したもので、翌年から北方四島との相互交流が実現しました。

10月15日

1980年(昭和55年)
総理府正面玄関に北方領土返還要求垂れ幕掲出

総理府正面玄関に「北方の領土かえる日・平和の日」と書かれた北方領土返還要求垂れ幕が出されました。
県や市町村の庁舎には北方領土返還を求める懸垂幕が掲出されていましたが、政府機関の庁舎に掲出されたのはこれが初めてのこと。政府が、北方四島の返還実現にむけて一層積極的に取り組む姿勢を明らかにしたことから、関係者はこれを機に北方領土の返還を求める声がますます高まるものと意を強くしました。

10月16日

1979年(昭和54年)
軍事配備抗議に対し、駐日ソ連大使が反論

ポリャンスキー駐日ソ連大使は外務省に高島外務次官を訪ね、日本政府が北方領土におけるソ連の軍備強化について抗議したことに関し、「日ソ間に領土問題は存在せず、ソ連領域内の行動につき注文をつけるのは乱暴な内政干渉である」と反論しました。

日本政府は10月2日、ソ連政府に対して、ソ連が日本固有の領土である国後、択捉両島下の軍備を一層強化しさらに色丹島にも新たな軍事力の配備を開始したことに厳重抗議を行い、同時に、北方領土の早期返還と軍事基地の速やかな撤去を強く要求していたものです。

10月17日

1986年(昭和61年)
「北方領土問題の解決促進に関する決議」が衆参両院で可決

衆参両院は「北方領土問題の解決促進に関する決議」を可決。日ソ共同宣言締結30周年にあたり、両国の国交を発展させるため、ゴルバチョフ書記長の訪日による両国最高首脳間の直接対話が早期に実現することを期待する、との内容でした。
また、ソ連の軍事的措置の撤回を求めるとともに、北方領土の返還を実現して平和条約を締結し、日ソ間の真に安定的な平和友好関係を確立するよう全力を傾注すべきである、としました。

10月18日

1792年(寛政4年)
ロシア遣日使節アダム・ラクスマン一行がバラサン沖(別海町)に到着

ロシア遣日使節アダム・ラクスマン一行が漂流民大黒屋光太夫と磯吉らをともない、エカテリーナ号で、バラサン沖(別海町)に到着しました。
ラクスマン一行は漂流民送還を名目に鎖国中の日本と交渉を持ち通商関係を樹立することを望んでいました。根室で越冬したのち松前藩と会談を行いましたが、交易の希望は拒絶されました。
しかし、今後の交渉のため長崎入港を認めるとの信牌を得て帰国しました。ラクスマンはこの旅行で蝦夷地の博物資料を採取したほか「遣日使節日記」を残しています。

10月19日

1956年(昭和31年)
鳩山首相が訪ソし、「日ソ共同宣言」調印

鳩山首相が訪ソし、「日ソ共同宣言」が調印されました。
平和条約の締結について、日本とソ連の間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を続ける(第9項前段)とし、続いて歯舞群島、色丹島についてふれ、ソ連は日本の要望にこたえかつ日本の利益を考慮して歯舞群島および色丹島を日本に引き渡すことに同意する、ただしこれらの島々は日本とソ連との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする(同項後段)と規定しています。

10月20日

1964年(昭和39年)
納沙布岬に故高碕達之助先生顕彰碑建立

納沙布岬に大日本水産会会長・故高碕達之助氏の顕彰碑が建立され、除幕式にヴィノグラードフ駐日ソ連大使をはじめ、多くの関係者が参列しました。
高碕達之助氏は早くから漁民の窮状を広く内外に訴え、病を押してソ連と交渉を重ね、ついに善隣友好の道を開き、昭和38年6月「日ソ民間漁業協定」の締結にこぎつけました。
北海道の水産業界はその功績をたたえ、遺徳をしのび、思い出の地納沙布岬に顕彰の碑を建立したものです。

10月21日

1972年(昭和47年)
大平外相訪ソ、第1回日ソ平和条約締結の交渉を開始

大平外相が訪ソし、グロムイコ外相との間で第1回日ソ平和条約締結交渉を開始しました。
昭和31年に締結した日ソ共同宣言で合意した平和条約締結交渉の開始は遅れていましたが、宣言調印から16年、今後も交渉を継続することで合意しソ連がようやく話し合いのテーブルにつくこととなりました。
ソ連側のいわば16年ぶりの「柔軟姿勢」は、当時支配的であった東西間の一般的な緊張緩和の雰囲気とも関連するものでした。

10月22日

1975年(昭和50年)
「日ソ漁業操業協定」が国会で批准承認

日本近海での日ソ両国漁船の紛争を防止するための「日ソ漁業操業協定」が国会で可決承認されました。
同協定は6月7日に外務省で調印され、宮沢外相とイシコフソ連漁業相が署名したものです。ソ連漁船団の南下が激しくなるにつれ日ソ両国漁船の紛争防止が問題となっていたもので、1972年から日ソ両国政府が話し合ってきた懸案。
協定には紛争の未然防止措置、紛争発生後の処理方法などが盛り込まれています。翌23日から発効しました。

10月23日

2000年(平成12年)
平和条約締結問題に関する日ロ合同委員会次官級協議開催

平和条約締結問題日ロ合同委員会次官級分科会協議が外務省麻布台別館で開催されました。
平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本に引き渡す、とした1956年の「日ソ共同宣言」の有効性を確認した上で北方四島の帰属問題を解決し平和条約締結を目指すことで両国は合意しました。また、河野外相が11月1日から4日まで訪ロし、イワノフ外相らと会談を行うこととなりました。
協議には日本側から加藤外務審議官、ロシア側からロシュコフ外務次官らが出席しました。

10月24日

1975年(昭和50年)
根室警察署納沙布巡査駐在所の監視塔が完成

根室警察署納沙布巡査駐在所の監視塔が納沙布岬に完成しました。
監視塔は納沙布駐在所の棟続きに造られた高さ12.4メートル、円筒形のコンクリート造り。上部には周囲360度を見渡せる八角形の展望台があり、珸瑶瑁水道の漁船の操業、ソ連監視船による漁船のだ捕状況、密出入国者の取り締まりなど沿岸警備に大きな役割を果たしています。

昭和33年に造られた監視塔が老朽化したため更新したものです。

10月25日

1980年(昭和55年)
伊東外相、北方領土を視察

伊東外相は根室海上保安部の巡視船「いしかり」で洋上から北方四島を視察しました。
その後、寺嶋根室市長ら地元代表らとの懇談会に臨み、「わが国固有の領土である北方領土をソ連は軍事基地化し日本国民の感情を逆なでしている。今後とも国論の統一と国際世論にも訴え、粘り強く交渉を進めていく」とソ連の非友好的対日姿勢を厳しく批判するとともに、政府の積極的姿勢を強調しました。

10月26日

1989年(平成元年)
「第1回北方領土フォーラム」開催

はじめての北方領土フォーラムが根室市で開催されました。
これは、札幌地区の婦人、労働団体、各連合町内会等のリーダーを対象に、北方領土復帰期成同盟が主催して開催したもの。
北方領土問題に関する認識を深め、返還要求に向けての国論の統一を図ること、また次代を担う青少年に北方領土問題の正しい理解を持たせ、返還運動の後継世代の育成を図ることを目的としたものです。基調講演に続いて行なわれた全体討論でも活発な意見交換がありました。

10月27日

1973年(昭和48年)
「日ソ漁業交渉共同声明」調印

桜内義雄農相が訪ソし、イシコフ漁業相との間で漁業交渉を行いました。
この交渉の結果1.漁業長期協定を結ぶ2.安全操業問題は日ソ共同声明に基づいて近い時期に継続交渉する3.サケ・マスについては前年に想定漁獲量を決め、カニ・ツブについては2年の長期取り決めとする4.サケ・マスB区域へのソ連監視船乗り入れ問題についても継続討議する――などが合意されました。

10月28日

1968年(昭和43年)
中曽根運輸相訪ソ、コスイギン首相と会談

中曽根運輸相は訪ソしてコスイギン首相と北方領土、北方領土海域安全操業、北方領土墓参などについて会談しました。
コスイギン首相は「北方領土と沖縄問題とはなんら関係がない。ソ日問題は存在しない」という従来の主張を繰り返しました。
また年内にも歯舞、色丹、国後、択捉など4ヵ所に砕氷船を使って墓参できるようにしてほしいとの我が国の要望に対しては、検討を約束しましたが、結果的にこの年の北方領土墓参は実施できませんでした。

10月29日

1991年(平成3年)
我が国国民の北方領土への訪問について閣議了解

10月14日の日ソ外相間往復書簡によりビザなしの相互訪問の枠組みが作られ、政府はこの枠組みを踏まえて、この日「我が国国民の北方領土への訪問について」を閣議了解。
この枠組みの下での北方四島への訪問が北方四島元居住者、返還要求運動関係者及び報道関係者により実施されるべきこと、この枠組み及び墓参以外の入域は引き続き自粛されるべきこと等を明らかにし、あらためて国民の理解と協力を要請したものです。

10月30日

1961年(昭和36年)
北方地域旧漁業権者等に対する特別措置に関する法律成立

第39臨時国会で「北方地域旧漁業権者に対する特別措置に関する法律」が可決、この日、公布されました。
北方地域に関する特殊事情や旧漁業者、元居住者のおかれている困難な状況等から、特別の措置を行うために作られた法律です。これに伴い政府は、北方地域元居住者などの援護措置として国債10億円を北方協会(現在の北方領土問題対策協会)に交付しました。

10月31日

1968年(昭和43年)
総理府総務長官が初めて北方領土を視察

田中竜夫総理府総務長官が、総務長官として初めて北方領土視察のため来根しました。
以来、歴代の総務長官(総務庁長官・北方対策担当大臣)を始め、総理大臣、外務大臣など、今日まで多くの政府要人が北方領土視察のため納沙布岬を訪れています。

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〒087-0037
北海道根室市穂香110番地9

電話番号:0153-23-6711 ファックス:0153-23-6713

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更新日:2018年03月01日