9月

9月

9月1日

1981年(昭和56年)
5年ぶりに活気!貝殻島周辺コンブ漁再開

昭和52年に中断された、日ソ民間協定による北方領土・貝殻島周辺コンブ漁は5年ぶりに再開され、この日午前7時の花火を合図に、コンブ漁船330隻が一斉に出漁しました。
この年の操業は8月25日~9月30日までで、一隻当り20万円、計6,600万円をソ連に支払い、58年からの操業期間は従来どおり6月1日から9月30日までとなり、操業隻数は375隻となりました。
平成6年からは採取料として1隻当り33万600円、計1億2,400万円をロシアに支払いました。 

9月2日

1945年(昭和20年)
日本、降伏文書に署名

わが国は、横浜沖に停泊のアメリカの軍艦ミズリー号上で、降伏文書に署名しました。引き続き連合国から「一般命令第一号」が発せられ、千島列島の日本全守備軍はソ連極東軍最高司令官に降伏すべしと命ぜられました。
この頃すでにソ連軍は北方四島に上陸、住民は漁船で根室へ脱出をはかりました。
この日より先の8月25日、トルーマン米大統領はスターリンに対し、千島列島は日本の領土であってその処理は講和処理で行うものであると述べていました。

9月3日

2000年(平成12年)
プーチン大統領来日 日ロ首脳会談開かれる

ロシアのプーチン大統領が9月3日~5日までの日程で日本を公式訪問しました。
森総理との首脳会談の結果、東京宣言及びモスクワ宣言を含む今日までの諸合意に依拠しつつ、北方領土問題解決による日ロ平和条約の締結について交渉するとした「共同声明」を発表しました。

9月4日

1976年(昭和51年)
北方領土墓参見送り

ソ連外務省は5月7日、この年の北方領土墓参について、ソ連本土及び樺太への墓参団と同様、有効なパスポートとビザを取得するよう要求してきました。
わが国としては、北方領土を法的にソ連領土
と認めさせようとするこのような要求を受け入れることはできず、撤回を求めて交渉を続けてきましたが、9月3日、ソ連は当初要求を撤回しないとの最終回答をしてきました。
この日、我が外務省は、これに強く反発する談話を発表、結局、3日後に出発を予定していたこの年の北方領土墓参は見送りとなり、昭和61年までの10年間は実施できませんでした。

9月5日

1945年(昭和20年)
ソ連が北方四島を占領

ソ連は8月28日からこの日までに北方四島すべてを占領しました。これは、日本がポツダム宣言を受諾し降伏の意図を明確に表明した後の進撃の開始でした。
まず、8月18日から千島列島の占領を開始し、31日までにウルップ島までの占領を完了しました。次いで米軍の不在が確認された北方四島に兵力を集中し、9月5日までに択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の全島を占領したものです。
昭和16年4月25日批准した日ソ中立条約はまだ有効な期間中の攻撃・占領でした。

9月6日

1989年(平成元年)
水野清総務庁長官が北方領土視察
水野清総務庁長官が納沙布岬から北方領土を視察しました。
ソ連警備艇が行き来する緊張の海を目の当たりにした長官は、改めて厳しい現実を実感、返還実現の誓いを新たにしました。
さらに翌7日には巡視船「ましゅう」に乗船、中間ライン付近まで近づいて視察を行いました。「百聞は一見にしかず、目の前の領土を見ることが、領土問題の認識を深めることになる。視察運動が活発になるよう各方面に働きかけたい」と語りました。

9月7日

1956年(昭和31年)
米国、北方四島が正当に日本の主権下にあるとの公式見解

米国国務省が覚書を発表しました。
「歴史上の事実を注意深く検討した結果、択捉、国後両島は北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに常に固有の日本領土」であり、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないとの内容の公式見解を発表したものです。

9月8日

1951年(昭和26年)
サン・フランシスコ平和条約調印

サン・フランシスコ講和会議参加52カ国中49カ国が平和条約に調印、この条約で日本は南樺太と択捉・国後・色丹・歯舞を除く千島列島を放棄しました。
条約に調印しなかったのは、ソ連を含む3カ国でした。
吉田全権代表はサン・フランシスコ会議で歯舞群島、色丹島が日本の本土たる北海道の一部を構成するものであることはもちろん、国後、択捉両島が昔から日本領土だった事実について会議参加者の注意を喚起しています。

9月9日

1992年(平成4年)
エリツィン大統領、訪日を突如延期

9月14・15日の両日で宮沢総理と領土問題を中心に首脳会談を行う予定だったエリツィンロシア大統領は、この日、「ロシア国内の諸般の事情」により訪日を延期することを通告しました。
エリツィン大統領の突然の訪日延期は、首脳会談によって新たな日・ロ関係を構築するための第一歩を期すという意味でも大きな意義を持っていただけに非常に残念なことでした。

9月10日

1981年(昭和56年)
鈴木首相、首相として初めて北方領土を視察

根室市民約千五百人の歓迎の中、鈴木首相が歴代首相として初めて北方領土を視察しました。
この現地視察については、かねて関係者が熱望してきたもので、これにより返還運動はさらに全国的に盛り上がるものと期待されました。
視察後、関係者・元島民らとも懇談し「領土より魚」という意見もあるというが、それは
大変な間違いであると語りました。

9月11日

1976年(昭和51年)
宮沢外相、北方領土視察

現職外務大臣として戦後初めて北方領土現地視察をした宮沢外相は「ソ連は北方領土返還は一部の声と言うが、私が来たことで全国民の声であることがはっきりした」、さらに「これまでの返還運動は現地から政府への一方通行だったが、これからは、双方の対話を積み重ねていきたい」と語りました。

1999年(平成11年)
初の「北方領土自由訪問」志発島へ

前年の日ロ首脳会談で合意された、北方領土への元島民、家族による初の「北方領土自由訪問」第一陣が志発島へ出発しました。

9月12日

1994年(平成6年)
色丹島沖で銃撃事件発生、犠牲者が出る

色丹島沖で中国及び韓国漁船がロシア国境警備隊の銃撃を受け、中国漁船の乗組員2名が死亡しました。
昭和43年9月28日にも択捉島沖で根室市の漁船がソ連国境警備艇に銃撃され、負傷者が出たことで漁民に大きなショックを与えましたが、銃撃による犠牲者が出たのは初めてのことでした。

9月13日

1980年(昭和55年)
中山総務長官、北方領土洋上視察

中山総理府総務長官は北方領土を洋上視察後、地元代表から陳情を受け、「北方領土返還なくして真の平和はない」と固い意志を表明、元居住者等に対する援護と地元振興対策にも積極的姿勢を示しました。

1986年(昭和61年)
根室市民のつどい開催

「北方領土返還要求根室市民のつどい」が根室市主催で開催されました。
大会長の寺嶋根室市長が「返還実現のため戦後41年、市民はあらゆる努力をしてきた。今や県民会議もほぼ全国に結成され、返還運動は南は沖縄まで展開されている。さらに正しい主張を貫くため国民は地域、職場、家庭で世論を結集しよう」と挨拶しました。

9月14日

1996年(平成8年)
初の北方領土青少年洋上研修

北方領土隣接地域振興対策根室管内市町連絡協議会が初の「北方領土青少年洋上研修」を開催、中学生ら43人が参加しました。
次代を担う根室管内の青少年を対象に、船から島々を見ることで返還運動に対する関心を醸成するとともに、船内宿泊研修を通して領土問題の正しい理解を深めることを目標としたものです。

2000年(平成12年)
続総務長官ビザなし交流参加

 北方領土返還運動を担当するトップとして初めて続訓総務長官がビザなし交流に参加、択捉を訪問しました。

9月15日

1948年(昭和23年)
マッカーサー元帥あて復帰懇請に関する陳情書提出

北海道附属嶋嶼復帰懇請委員会会長・岸田利雄氏が連合国軍最高司令官マッカーサー元帥あてに陳情書を提出しました。
「地方漁民の窮状」を理解し、速やかに「ソ連軍の占領を解除せしめられたい」などの内容。
マッカーサー元帥へのこのような内容の陳情
は、昭和20年12月1日の根室町長安藤石典
氏以来、毎年行われていました。

9月16日

1973年(昭和48年)
歯舞漁協青年部初の北方領土研修会開催

この日、初めて歯舞漁協青年部主催の北方領土復帰促進運動討論研修会が開かれました。
講師の北方領土復帰期成同盟根室地方支部細井勝芳事務局長や元島民から北方領土の歴史や返還運動などについて説明を受け、参加した青年達から地元の青年として関心の薄さを反省し、運動の盛り上げを誓う意見が相次ぎました。

9月17日

1985年(昭和60年)
社会党石橋氏、ソ連共産党と会談

訪ソ中の社会党の石橋委員長ら同党代表団は、ソ連共産党中央委員会本部を訪れ会談しました。
石橋委員長は「真の友好は言いたいことを我慢することではない」と北方領土問題でのソ連側の譲歩を追りましたが、ソ連側は応じませんでした。

9月18日

1986年(昭和61年)
全国都道府県・政令指定都市北方対策主管課長会議開催

総務庁北方対策本部が主催する、全国都道府県・政令指定都市北方対策主管課長会議が開かれました。
北方対策本部から現状と施策の説明などの報告があり、また、未次一郎氏が「日ソ関係の新段階と北方領土」と題する示唆に富んだ講演を行い、参加者に大きな感銘を与えました。
会議に先がけ納沙布岬を視察した一行は、肉眼で水晶島や秋勇留島をはっきりと確認、北方領土の厳しい現実を目で見、肌で感じていました。

9月19日

1989年(平成元年)
北方領土入域に関する閣議了解

政府は「わが国国民の領土入域問題」について閣議了解を行いました。
ソ連の出入国手続きに従って北方領土に入域することは「北方領土が我が国固有の領土であるにもかかわらず、あたかもソ連の領土であるかのごとく入域することである」として北方領土問題の解決までの間、北方領土への入域を行わないよう国民に要請しました。

1812年(文化9年)
高田屋嘉兵衛、ロシア船に捕まる

高田屋嘉兵衛が国後沖でロシア船に捕われました。前年、ロシア軍艦ディアナ号艦長ゴローニンが国後島で幕府に逮捕されたため、交換の人質とされたものです。

9月20日

1869年(明治2年)
明治政府、蝦夷地を「北海道」と改める

明治政府は蝦夷地を「北海道」と改め、道内に11カ国86郡を置くこととしました。
渡島、後志、石狩、胆振、日高、天塩、十勝、釧路、根室、北見と並んで11カ国の1つとして「千島」も数えられていました。
国後島は千島国国後郡となり、択捉島は千島国の択捉、紗那、振別、蘂取の4郡に分けられました。色丹島と歯舞群島は根室国花咲郡に入りました。

9月21日

1945年(昭和20年)
多楽島市杵島神社の御神体が根室金刀比羅神社に奉還

多楽島に上陸したソ連軍の厳しい監視の中、多楽島市杵島神社氏子総代の蛇川吉次郎氏が、夜中ひそかに社殿より御神体を奉持し、9月20日自船に家族とともに御神体を奉載して多楽島を脱出。翌21日根室に到着し金刀比羅神社に奉遷しました。
昭和56年以来、毎年6月に多楽島民が集まり祭儀を行っています。 

9月22日

1971年(昭和46年)
佐藤首相、来日のパトリチェフソ連貿易相と会見

佐藤首相は来日中のパトリチェフソ連貿易相と会見しました。
首相は四島の返還を前提としての日ソ平和条約の締結を希望すると語りましたが、同貿易相は「ソ連としても平和条約を結びたいが、北方領土に関するソ連の原則的な立場は変わらない」と述べ、平和条約を結ぶ際、返還の範囲として検討されるのは、日ソ共同宣言に規定される歯舞、色丹だけであるとの態度を示すにとどまりました。

9月23日

1975年(昭和50年)
「北方領土復帰・日ソ平和条約締結促進道民大会」開催

世論を結集して北方領土の一日も早い返還を―北方領土復帰・日ソ平和条約締結促進北海道民大会が開かれました。
大会に参加した植木光教北方対策本部長(総理府総務長官)は「四島一括返還を実現し、日ソ平和条約を結ぶという政府の立場、基本方針は不動であり、いささかの変化もない」と強調。
大会は「政府は不退転の決意で強力な対ソ外交を進めてほしい」という決議と宣言を満場一致で採択しました。

9月24日

1991年(平成3年)
中山外相、対ソ政策の5原則を発表

中山外務大臣が「対ソ政策の5原則」を発表。
最も重要な問題として、ロシア共和国が特に重視する「法と正義」に基づき、領土問題を解決して平和条約を締結し、両国関係の改善を図ることが重要である。我が国は、日ロ・日ソ関係の飛躍的発展が新たな国際秩序の構築に創造的な貢献を果たすと確信するものである、としました。

9月25日

1971年(昭和46年)
北方同盟根室地方支部設立

北方領土復帰運動を強化するためには、特に民間を中心とした世論盛り上げがもっとも重要であるとして、これらを具体化していくため、北方領土返還運動根室地域推進委員会を発展的に解散し、新たに「北方領土復帰期成同盟根室地方支部」が設立されました。
初代の支部長には横田根室市長を選びました。平成14年4月現在、101団体で構成されています。

9月26日

1945年(昭和20年)
国後島郵便局にソ連兵来局

国後島作万別郵便局にソ連兵が来局し、局内を査閲後、局長に古釜布への同行を迫りました。
局長はソ連兵の目をぬすみ非常持出の重要書類を焼却の上「四囲の情勢楽観許さず」と4日後に漁船で脱出し根室町(当時)に避難しました。

9月27日

1981年(昭和56年)
領土返還祈念シンボル像「四島のかけ橋」完成

納沙布岬に北方領土返還祈念シンボル像「四島のかけ橋」が完成。北方領土が返還されるまで粘り強く返還運動を続けるという国民の決意を象徴するものです。
完成除幕式には昭和47年に祖国復帰を実現した沖縄県の南端・波照間島で採火した「祈りの火」が27日間をかけて全国縦断リレーで運ばれ、シンボル像下部の灯火台に点火されました。
祈りの火は返還実現のその日まで絶えることなく煌々と燃やし続けることにしています。

9月28日

1968年(昭和43年)
択捉島沖でソ連警備艇による銃撃事件発生

この日、択捉島のソ連主張領海付近で操業していた根室市の漁船3隻がソ連警備艇に追跡され2隻がだ捕されました。この時、銃撃事件も発生し1人が負傷しました。
負傷者が出たのは今回がはじめてで地元沿岸漁民に大きなショックを与えました。
その後、平成6年9月12日には、色丹沖で、中国と韓国漁船がロシア国境警備隊に銃撃を受け中国漁船員2名が死亡するという事件も発生しています。

9月29日

1956年(昭和31年)
日本国政府全権委員からソ連第一外務次官に書簡

松本全権委員は、北方領土問題を含む正式の平和条約締結に関する交渉は両国間の正常な外交関係の再開後に継続せられるものと了解するものである、旨の書簡をグロムイコソ連第一外務次官あてに提出しました。

9月30日

1961年(昭和36年)
池田首相が参議院本会議で答弁、ヤルタ協定認めぬ

池田首相は、参議院本会議において千田正議員の質問に対し、歯舞・色丹・国後・択捉は日本固有の領土であり、一歩も譲らない。ヤルタ協定は認めぬと答弁しました。

ヤルタ協定とは、ソ連対日参戦と引き換えに「千島列島」をソ連に引き渡すことを約束した秘密協定で、日本がこれに拘束されることはなく、後に米国も本協定の法的効果を否定しているものです。

この記事に関するお問い合わせ先

北方四島交流センター

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電話番号:0153-23-6711 ファックス:0153-23-6713

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更新日:2018年03月01日