8月

8月

8月1日

1980年(昭和55年)
納沙布岬に「北方館」が完成

納沙布岬「北方館」の落成式が行われました。
北方領土返還運動の原点である納沙布岬で目の前に北方領土を眺めながら、各種展示資料を見て北方領土問題について認識を深めてもらい、国民世論の高揚を図ることを目的としています。

1965年(昭和40年)
北方領土返還運動強調月間設定

この年から、毎年8月中を「北方領土返還要求運動強調月間」と位置づけ、重点的に返還運動をすることになりました。

8月2日

1801年(享和元年)
ウルップ島のロシア人との交易を断る

ウルップ島のロシア人の帰国を促すため、ロシア人に米、酒、たばこ等を入手させないよう、アイヌ人とロシア人の交易を絶つことをもくろんだ幕府は、支配勘定格富山元十郎と中間目付深山宇平太をウルップ島に派遣しました。
ロシア人ケレトフセは、一行にラッコ皮と米、酒の交換を求めてきましたが、「国禁」として断りました。

8月3日

1970年(昭和45年)
第1回北方領土復帰実現青年婦人集会開催

全国地域婦人団体協議会と日本青年団体協議会は、根室で第1回北方領土復帰実現青年婦人集会を開催しました。
約250名の青年・婦人が集まり、元島民の現況報告や北方領土復帰期成同盟松本俊一会長の講演につづき、映画「その火は消えず」の上映などが行われました。最後に「思想、感情にとらわれない立場から国民運動の母胎として、全国の青年、婦人が結集、運動の成功に全力を傾ける」と集会の名において決意表明を行いました。

8月4日

1990年(平成2年)
3千4百個の希望のあかり点灯

北方領土返還要求運動強調月間の8月中は全国各地で多彩な行事が行われます。この日、根室市明治公園では北方領土返還要求のつどいが開催され、2千人が参加。翌5日は同会場で北方領土返還要求根室管内住民大会が開催され3千人が参加しました。
会場には全国から協賛の「島を返せ」と書かれた北方領土啓発提灯3千4百個に希望のあかりが灯されました。

1998年(平成10年)
ビザなし訪問者数5千人突破

ビザなし渡航による日ロ双方の訪問者数が、平成4年4月の実施以来5千人を突破しました。

8月5日

1966年(昭和41年)
だ捕抑留が相次いだため色丹島に野菜や果物を届ける

昭和30~40年代は、ソ連による日本漁船の「だ捕事件」が多発しましたが、だ捕された多くの漁船員は判決が下されるまで色丹島の収容所で不自由な抑留生活を送ります。
このため根室市と根室日ソ友好親善協会が中心となり、横田根室市長を団長とする市民代表10名がビザなしで色丹島を訪問、野菜や果物(3トン)を届け、ソ連官憲に対し、だ捕抑留漁船員の早期釈放と健康管理に配慮するよう話し合いをしました。
その結果、抑留漁船員10名が釈放され、訪問団と一緒に根室港に帰りました。
このような働きかけは、昭和42年にも実施されました。

8月6日

1946年(昭和21年)
マッカーサー元帥あて陳情書作成

北海道附属嶋嶼復帰懇請委員会会長安藤石典氏が、連合国軍総司令官マッカーサー元帥あてに、北方領土の日本復帰とソ連軍によるだ捕の不当、占領解除等について訴える陳情書を作成しました。
安藤氏は終戦当時の根室町長で、終戦直後の昭和20年12月に町長として同元帥に陳情したのを皮切りに、昭和30年に病没するまで献身的に返還運動に取り組みました。

8月7日

1959年(昭和34年)
「北洋近海の安全操業に関する業界の要望」発表

だ捕事件が相次ぐ中、大日本水産会は「北洋近海の安全操業に関する業界の要望」を発表しました。
これは、だ捕の不安にさらされながら操業している北洋近海における漁民のためのもので、安全操業協定が結び得ないのであれば、1.「平和条約」を締結して、少なくとも歯舞群島、色丹島の返還を図って関係漁民をだ捕の危険から守るか、2.国内的な補償措置を講じて、これらの漁民の生活を援護するよう要請したものです。

8月8日

1945年(昭和20年)
宣戦通告文手交

ソ連のモロトフ外相は佐藤駐ソ大使に、8月9日午前0時をもって日本と戦争状態に入るとの宣戦通告文を手交しました。「日本がポツダム宣言を拒否したため、ソ連への平和介入の申し込みはその基礎を失ったこと、連合国からソ連に対日戦争への参加の提議があったのでこれを受諾した」等の内容でした。翌9日、当時有効であった日ソ中立条約を無視して対日参戦し、直ちに軍事行動を開始しました。

1985年(昭和60年)
駐日中国大使館武官が視察

駐日中国大使館武官・朱文中氏が北方領土を視察に根室を訪れました。「中国の立場ははっきりしている。奪ったものは返すべきだ」と語りました。

8月9日

1955年(昭和30年)
ソ連が態度を一変、平和条約締結迫る

日本全権松本俊一氏とソ連マリク全権がロンドンで6月3日~9月13日まで、計15回にわたり日ソ国交正常化のための話し合いを行いました。
会談の中でソ連は、領土問題に関して、最初南サハリン、千島と並んで歯舞諸島と色丹島もソ連領とすることを主張していましたが、この日、突如態度を一変し「小千島」すなわち歯舞・色丹の引き渡しを申し出るとともに、平和条約の締結を強く迫りました。

8月10日

1947年(昭和22年)
初の住民大会開催

初めての「北海道附属嶋嶼復帰懇請根室国民大会」が根室市桜橋広場で開催されました。
歯舞群島・色丹島・択捉島・国後島は私たちの祖先が200年以前から開拓に努めた日本の領土であり、速やかに復帰を願望する等の大会宣言及び決議を採択し、マッカーサー元帥に懇請文を送付しました。

1901年(明治34年)
択捉島に道会議員誕生

北海道会法の発布に伴い、第1回北海道会議員選挙が行われ、紗那支庁管内(定員1名)で倉沢惣太郎が無競争で当選しました。
なお、国後・色丹・歯舞群島等の島々は根室支庁管内に含まれていました。

8月11日

1971年(昭和46年)
「北方少年」一行を中央へ派遣

北方領土元居住者の子弟である中学生ら一行10名が東京へ向け出発しました。
一行は総理大臣、総理府総務長官、外務大臣、文部大臣等を表敬訪問し、北方領土問題の早期解決等を訴えました。
また、在京中には同世代の少年や沖縄豆記者(中学生)一行と交流し、北方領土問題に関する理解と認識を深めました。このような事業は現在も継続されています。

8月12日

1946年(昭和21年)
地元代表5名上京

北方領土復帰懇請のため、北海道附属嶋嶼復帰懇請委員会会長安藤石典氏ら5名が初めて上京し、陳情しました。
同5名は外務省、終戦連絡中央事務局等を訪問陳情し、その後、連合国軍総司令部で高級副官ホイラー大佐にマッカーサー元帥あての英文陳情書を提出し、一日も早く北方領土をソ連の占領から解除されるよう、閣下の御配慮をねがう旨の懇請を行いました。

8月13日

1985年(昭和60年)
山本海保長官が北方領土を視察

就任後初めて来道した山本長・海上保安庁長官が納沙布岬から北方領土を視察しました。
この日は珍しく霧がかからず、水晶島などがはっきりと見え、長官は「北方領土が指呼の間にあることを実感した。いまだに返還されずにいるのは残念」と語りました。

8月14日

1945年(昭和20年)
日本がポツダム宣言を受諾

日本がポツダム宣言を受諾しました。
1943年11月27日にエジプトのカイロで署名された「カイロ宣言」の領土不拡大の原則を引き継いでいるこの宣言に、ソ連も参加した旨を対日宣戦通告文で述べておりながら、いまだに北方領土を占領しています。

1941年(昭和16年)
英米共同宣言調印

英国と米国は、「両国は領土的その他の増大を認めず」等とする共同宣言に調印しました。
その後、1942年1月1日に連合国共同宣言にソ連も調印、英米共同宣言に賛意を表すとしています。

8月15日

1945年(昭和20年)
日本、連合国に無条件降伏

前日「ポツダム宣言」を受諾した日本は、連合国に無条件降伏し終戦を迎えました。
この日現在北方領土で暮らしていた島民は17,291人、その後全員が島を追われることになりました。
 

8月16日

1961年(昭和36年)
ソ連首相の親書を手交

ミコヤンソ連第一副首相が総理官邸に池田首相を訪問、懇談を行いました。
同副首相は、日米安保体制を非難する内容のフルシチョフソ連首相からの親書を手交しました。

8月17日

1978年(昭和53年)
「望郷の岬公園」の名前が決定

「望郷の岬公園」の名前が決定し、発表されました。
納沙布岬に建設予定の公園について、総理府北方対策本部はその名称を全国から募集し、約1万2千通の応募の中から「望郷の岬公園」と決定しました。同一名称を応募した38人の中から抽選で5人に総理府総務長官賞が贈られました。

「望郷の岬公園」は昭和56年9月27日に完成、オープンしました。

8月18日

1945年(昭和20年)
ソ連軍、占守島を攻撃

8月15日の終戦から3日後、ソ連極東第二軍が千島列島最東端の占守島に上陸攻撃してきました。
千島列島には2万5千人の日本軍が駐屯していましたが、その主力部隊が占守(しゅむしゅ)島にあったため激しく防戦しました。この戦闘で8月21日の停戦までにソ連軍は約3千人の死傷者、日本軍も7~800人の死傷者を出したといわれています。

8月19日

1799年(寛政11年)
高田屋嘉兵衛が択捉島に到着

1786年(天明6年)の最上徳内の最初の渡航以来、択捉島への渡航はアイヌ人の協力による蝦夷船に依存していました。
高田屋嘉兵衛は前日(18日)に幕府の御用船義温丸(100石積以下)に乗り、国後島アトイヤを出航しました。そしてこの日、択捉島タンネモイに到着、紗那や内保などを巡り29日に国後島に戻りました。
この渡航によって、国後・択捉の回船ルートが切り開かれました。

8月20日

1982年(昭和57年)
北方領土問題特別措置法が成立

「北方領土問題等の解決促進のための特別措置に関する法律」が成立しました。
北方領土問題が未解決なことで根室地域が置かれている特殊な事情を考慮し、国民世論の啓発や元居住者に対する援護等、北方領土隣接地域の振興と生活安定の措置を定め、北方領土の早期返還実現を図ることを目的としています。

1978年(昭和53年)
「望郷の岬公園」命名式

納沙布岬で「望郷の岬公園」の命名式と建設予定地標柱の除幕式が行われ、稲村総務庁長官がくす玉を割りました。

8月21日

1986年(昭和61年)
11年ぶりに北方墓参再開

昭和39年から実施されていた北方墓参でしたが、昭和51年の実施の際、ソ連側からパスポート携行とビザ取得を要求されたためやむをえず中止し、昭和60年までの10年間実施されませんでした。
昭和61年、8年ぶりに行われた日ソ外相定期協議において、従来通りの方式で再開されることになりました。11年ぶりの北方墓参は水晶・色丹島で行われ、52名が参加しました。

8月22日

1982年(昭和57年)
第1回ノサップマラソン開催

誰でも参加できるスポーツを通じて北方領土問題を内外に啓発するため、北海道、根室市、北方領土復帰期成同盟等で構成する実行委員会が「国際親善ノサップ岬健康マラソン大会」を開催しました。
納沙布岬「望郷の岬公園」をスタートし、北方領土を指呼の間に望みながら根室市役所前のゴールを目指すこの大会には298名が参加しました。
翌58年から名称を「北方領土ノサップ岬マラソン大会」と改称し、毎年全国から多くの参加者を得て、現在も継続実施されています。

8月23日

1945年(昭和20年)
「日ソ両軍現地停戦協定」締結

終戦から3日後の8月18日、千島列島の占守(しゅむしゅ)島に上陸攻撃したソ連軍と交戦していた日本軍は、軍司令官の命令により交戦を中止し「日ソ両軍現地停戦協定」を締結。その後ソ連軍は千島各島に駐屯する日本兵の武装を解除しながら南下し、8月27日にソ連軍はいったんウルップ島から引き返しました。

1931年(昭和6年)
リンドバーグ、国後島に着水

リンドバーグ夫妻が乗る飛行機シリウス号が国後島東沸湖に着水しました。同夫妻は北太平洋航空路開拓のため飛行中でした。

8月24日

1990年(平成2年)
戦後初めて択捉島の墓参実現

この年、3班に編成された北方墓参団の第2班が択捉島留別の墓地に向け根室港から出発しました。続いて、29日には、第3班も紗那と蘂取の墓地に向いました。
択捉島での墓参は戦後初めて実現しました。

2000年(平成12年)
羽田元首相がビザなし訪問

平成12年度第3回ビザなし訪問に民主党羽田孜幹事長が参加しました。首相経験者がビザなし訪問するのは初めてのことです。

8月25日

1985年(昭和60年)
大阪ママさんコーラス、北方領土の歌を熱唱

納沙布岬で北方領土返還要求根室管内住民大会が開かれ、大阪府泉南市ママさんコーラスが特別参加し、北方領土の歌を熱唱しました。
同コーラスは主婦を中心に50名で構成され、3年前の昭和57年「北方領土の日」の2月7日に大阪で開かれた記念集会で、北方領土関係の歌の指導を依頼されたことがきっかけになり、返還運動に関わっています。

8月26日

1961年(昭和36年)
池田総理、ソ連首相の親書に返簡

池田総理がフルシチョフ首相の親書に対し返簡を送りました。
フルシチョフ親書は、日本との平和、友好及び協力の関係を樹立すること、対日懸案のすべてを話し合いによって解決し、両国間の関係を完全に正常化したいと主張していました。
これに対し、池田返簡は北方領土を返還し平和条約を締結することが必要であり、日本国民はソ連が日本固有の領土を返還することによって、平和条約への路をひらき得る立場にあると考えている、と反論する内容でした。

8月27日

1997年(平成9年)
日本側ビザなし訪問団、根室港から出航

平成4年から始まった「ビザなし交流」ですが、国後・色丹島を訪れる当年度第7回訪問団が根室港から出航しました。
同訪問はこれまで根室・花咲港を使用していましたが、この回から、日本の団員に高齢者が多いことに配慮し、出入域手続きを行う国後島・古釜布までの所要時間が約2時間短縮できる根室港を使用することになったものです。

8月28日

1932年(昭和7年)
斎藤茂吉が根室を来訪

道内を旅行中の歌人・斎藤茂吉が、この日根室に来訪、「旅人の心こほしく白雲をかむれる山は国後千島の山」と詠みました。
昭和5年には土屋文明も訪れ「納沙布の岬の方は低くして海が見え択捉の島があわあわと見ゆ」と詠んでいます。また、13年には伊藤整も根室を訪れました。

8月29日

1975年(昭和50年)
沖縄県で「北方領土パネル展」開催

沖縄県那覇市で「北方領土パネル展」が開催されました。
那覇青年会議所、北方領土問題対策協会主催で国及び沖縄県・市、地元報道関係などが後援したもので、県内での大規模な北方領土展はこのときが初めてのこと。
北方四島の歴史、生活、地図など約70点のパネルで紹介。また、戦後の日ソ間外交交渉の経過や北方領土問題の経緯を年表でわかりやすく紹介しました。

8月30日

1975年(昭和50年)
第1回北方領土復帰促進少年弁論大会開催

根室市主催の第1回北方領土復帰促進少年弁論大会が開催されました。
根室市内中学校の代表16名が返還運動の必要性を訴えました。
問題の長期化に備え、次の時代を担う青少年が北方領土問題について関心を持ち、将来の返還要求運動のリーダーに育つよう、現在も毎年継続実施されています。

8月31日

1893年(明治26年)
報効義会、念願の占守島に上陸

郡司成忠が率いる北千島開拓組織「報効義会」が、千島列島最北端の占守(しゅむしゅ)島に上陸しました。
重要視されていた同島は、当時ほとんど無人に近く、詳細な調査が行われていませんでした。郡司は東京から同島到着までを3ヶ月と見込んで出発しましたが、悪天候や遭難などで5ヶ月余を要して到着。一行は感激のあまり「万歳」を叫びました。
後に南極探検を行う白瀬矗も隊員として参加していました。

この記事に関するお問い合わせ先

北方四島交流センター

〒087-0037
北海道根室市穂香110番地9

電話番号:0153-23-6711 ファックス:0153-23-6713

北方四島交流センターへのお問い合わせはこちら

更新日:2018年03月01日