6月

6月

6月1日

1971年(昭和46年)
北方領土現地視察の要請書提出

北方領土問題青年会議と北方領土居住者壮青年連合会は、総理、外務、農林の各大臣と、総務長官に対し北方領土の現地を視察するよう要請書を提出しました。

6月2日

1977年(昭和52年)
初の「全国都道府県北方対策主管課長会議」開催される

北方領土返還への世論を全国的に盛り上げるため、総理府北方対策本部は北方領土問題の原点の地である根室市ではじめての全国都道府県北方対策主管課長会議を開催しました。
席上、HNK解説委員米田奎二氏が講演を行い、「かつて米国のダレス国務長官は、北方領土の返還実現には1.ソ連の気が変わるか、2.戦争を行うしかないと言ったが、私は3.わが国の国民世論の一致した盛り上がりが最も有効と考える」と語りました。

6月3日

1957年(昭和32年)
グロムイコ外相に安全操業の申し入れ

ソ連の拿捕攻勢がますますはげしくなり、日本政府は門脇駐ソ大使を通じグロムイコソ連外相に安全操業の申し入れを行いました。
道東海域における拿捕は昭和30年に67件440人、31年には89件677人と激増していました。

6月4日

1936年(昭和11年)
国後島古釜布の碓氷缶詰工場で撮影された映画の封切り

山本有三原作、内田吐夢監督で国後島古釜布
の碓氷缶詰工場をロケ地に撮影された映画「生命の冠」が封切りとなりました。
工場内のシーンでは「女工女工とけいべつするな 女工さんが詰めたる缶詰は 横浜検査に合格し アラ女工さんの手柄は外国までも」の女工節が流れます。
若き日の原節子も主人公の妹役で出演しています。

6月5日

1990年(平成2年)
米国大統領、北方領土問題で日本を支援

ブッシュ大統領は海部首相に電話し、ワシントンで行われた米ソ首脳会談の内容について約20分会談しました。
大統領は、北方領土問題も会談で取り上げられたことを明らかにし、この問題ではソ連大統領から、前向きの発言はなかったものの、「北方領土問題は重要な問題で、米国としては引き続き日本の立場を支援していく」とソ連大統領に伝えたと報告しました。

6月6日

1980年(昭和55年)
北方領土復帰期成同盟が「北方領土の日」を制定するよう決議

北方領土復帰期成同盟は「北方領土の日」を国が制定するよう決議を行い、政府に強く要求していくことを決めました。
これがきっかけとなって、政府は昭和56年1月6日の閣議で毎年2月7日を「北方領土の日」とすることに決定しました。

6月7日

1979年(昭和54年)
北方領土の軍事基地建設について駐日ソ連大使の発言

沖縄を訪れたドミトリー・ポリャンスキー駐日ソ連大使が記者会見し、択捉、国後両島など北方領土での軍事基地建設問題について「何が
建設されようと、日本の安全にとって脅威となるものではない」と述べました。
さらに「両島はソ連領土であり、両島内のできごとはソ連の国内問題(中略)日本は何もないのに大騒ぎしている」と語りました。

6月8日

1983年(昭和58年)
北方領土返還を訴え全国縦断

北方領土返還を訴える全国縦断リレーマラソンが日本最南端の沖縄をスタートしました。
これは日本青年会議所が企画したもので返還運動の取り組みとしては初の全国規模のマラソン実施となりました。1,800人が2ヶ月かけ、根室までの3600キロを走り継ぎました。

6月9日

1982年(昭和57年)
桜内外相、グロムイコ外相とニューヨークで会談

桜内外相は国連のソ連代表部にグロムイコソ連外相を訪れ、会談しました。
この会談では北方領土問題をはじめとする日ソ関係、アフガニスタン問題、ポーランド問題、軍縮問題が取り上げられました。
領土問題についてグロムイコ外相は「日ソ間に領土問題はない」との従来の見解を繰り返し、論議は平行線のまま終わりました。

6月10日

1963年(昭和38年)
貝殻島水域におけるコンブ採取協定モスクワで調印

貝殻島水域におけるコンブ採取協定が、大日本水産会代表とソ連国民経済会議付属漁業国家委員会代表との間でモスクワで調印されました。
これは昭和36年8月23日の大量拿捕事件がきっかけとなったもので、高碕達之助大日本水産会会長の老齢病躯をかえりみない奮闘の成果とされ、納沙布岬には同氏の顕彰碑が建立されています。

6月11日

1952年(昭和27年)
占領のための在日ソ連代表部の存置を通告

1952年(昭和27年)4月28日をもって効力を発生したサンフランシスコ平和条約により、連合国の日本占領は終わりましたが、ソ連は不法な平和条約であると主張、この日、占領継続のための在日ソ連代表部の存置を通告しました。
サンフランシスコ平和条約は、昭和26年9月8日に署名されましたが、ソ連を含む3国が署名しませんでした。

6月12日

1983年(昭和58年)
防衛庁長官が北方領土を初視察

自衛隊の演習視察のため北海道を訪れた谷川防衛庁長官が同庁長官としては初めて、自衛隊機から北方領土を視察。
これに対しすでに前月31日、国営タス通信を通じてこの視察計画を「新たな挑発行動のひとつ」と非難していたソ連側は、この日2隻の警備艇を納沙布岬沖合約2キロまで接近させるなどの対抗措置をとりました。

6月13日

1984年(昭和59年)
安部外相、カピツァ外務次官と会談

ロンドンでの先進国首脳会議に出席した安倍外相は、夕方モスクワ空港に立ち寄りカピツァソ連外務次官と約1時間半にわたって会談しました。
席上、安倍外相はロンドンサミット会談内容を伝え、さらに、北方領土への墓参、遺骨収拾の実現を要望しました。これに対しカピツァ次官は今後とも実現に努力すると回答しました。

6月14日

1915年(大正4年)
歯舞村の第一期村会議員選挙実施

歯舞村の第一期村会議員選挙が実施されました。
同村は明治34年に戸長役場が置かれましたが、大正4年4月に二級町村制が施行され歯舞村(歯舞群島を含む)となりました。
議員定数は10名で任期は2年でした。

6月15日

1993年(平成5年)
南クリールでは560家族がロシア本土への移住を希望

極端な燃料不足などに陥っている北方領土(南クリール地区)では、苦境から脱するため
ロシア本土への移住を希望している住民が約560家族に上がっている。
15日に開かれたサハリン州議会で、ブイジヤノフ・クリール社会経済発展委員長が報告しました。
報告によれば色丹島300、国後島130、択捉島130の合計560家族が移住を望んでいるがコンテナ輸送料が高騰して引っ越し費用が工面できない状態、とのこと。

6月16日

1977年(昭和52年)
福田総理、記者会見で領土問題解決が先決と強調

福田総理は記者会見で、先にブレジネフ書記長が石田労相に提案した日ソ善隣協力条約に触れ、領土問題解決が先決であるとの立場を強調して、同提案に応じる考えはないと語りました。

6月17日

1994年(平成6年)
北連協がサハリン州で領土返還を訴える

北方領土返還要求運動連絡協議会(北連協)の一行が、サハリン州政府やユジノサハリンスク市役所を訪れました。
日本青年会議所北方領土関係委員会の馬立重委員ら一行5人が領土返還への理解を訴えたのに対し、ドルギフ第一知事代理は「共産党とは無関係の次世代の人たちの手で問題の解決を進めなければならない」と語りました。

6月18日

1957年(昭和32年)
日ソ平和条約締結前に歯舞、色丹返還!?

フルシチョフソ連共産党第一書記は、朝日新聞編集局長の取材に対して、米国が沖縄を返せば日ソ平和条約締結前に歯舞、色丹の返還を提案してもよいと答えました。
1956年(昭和31年10月19日)の「日ソ共同宣言」第9項には「日ソ平和条約締結後に歯舞群島、色丹島を引き渡すことが明記されています。

6月19日

1966年(昭和41年)
イシコフ漁業相来日

イシコフソ連漁業相がこの日から28日まで来日し、安全操業に関する赤城試案に対し、ソ連は北方四島周辺海域の操業拡大は領海、領土問題がからむため認められないと回答しました。
 また、24日には根室を訪問し納沙布岬から北方領土を視察しました。

赤城試案とは色丹島、歯舞群島周辺海域でのタラ、スケトウ、カレイ類やコンブ、タラバガニ等を対象魚種に漁期、漁業種別等を内容にしたものでした。

6月20日

1979年(昭和54年)
納沙布岬で「北方館」の起工式

納沙布岬の望郷の家に隣接して建設する「北方館」の起工式が行われました。
この施設は、北方領土を眺めながら認識を深めてもらい、国民世論の高揚により一日も早い返還実現をめざすためのもので、翌年7月25日に竣工しました。
起工式に出席した三原総理府総務長官は、巡視船「いしかり」で洋上から北方領土を視察しました。

6月21日

1996年(平成8年)
「北方地域旧漁業者等に対する特別措置に関する法律の一部を改正する法律案」が通常国会で可決

「北方地域旧漁業者等に対する特別措置に関する法律の一部を改正する法律案」が通常国会で可決されました。
これにより元島民と旧漁業者に限られていた北対協資金の融資資格が、一定の条件を満たして生前継承の手続きをとることによって、子供や孫にも適用されるようになりました。

6月22日

1979年(昭和54年)
教科書の北方領土記載が大幅増

文部省が昭和55年度から小学校で使用する教科書の検定結果を発表しました。
新しい教科書では北方領土問題が大幅に取り上げられることになり、「北方領土はもともと日本の領土で、多くの日本人が暮らしていました。しかし、戦争にやぶれ、ソ連が北方領土を占領しました。ソ連は今でもこれらの島々を占領しつづけ、日本人が近づくことさえ許していません」などと記述されることになりました。

6月23日

1807年(文化4年)
ロシア船2隻による択捉島襲撃の報告が箱館に届く

幕府役人関谷茂八郎の書状が函館奉行に届きました。
先の択捉島ナイボ番屋の襲撃に次いでフヴォストフの乗るユノナ号、ダヴィドフの乗るアヴォーシ号のロシア船2隻による択捉島シャナ会所襲撃と、その責を負って自害した幕府役人戸田亦太夫などに関する報告でした。

6月24日

1976年(昭和51年)
参議院外務委員会の一行が来根

参議院外務委員会の一行が北方領土の視察に来根。
地元関係者は早期復帰促進や安全操業対策などを強く要望しました。「これまで幾度となく北方領土問題と安全操業について陳情要望を繰り返してきたが、現状は明るい兆しが見えるどころかますます厳しいものとなり地元漁民にとっては不安がますばかりだ。むしろ関係議員の方に一体どうなっているのか、こちらから見解を聞きたいというのが本当の気持ちだ」という悲痛な叫びも聞かれました。

6月25日

1997年(平成9年)
納沙布岬沖合でロシア国境警備隊が銃撃

納沙布岬沖合の日ロ中間ライン付近で操業中のカレイ刺し網漁船・第63栄幸丸がロシア国境警備隊の銃撃を受け、乗組員2名が腹部や肩に銃撃を受けて重傷を負いました。
同海域では前年にも2名が重傷を負わされています。

6月26日

1966年(昭和41年)
日本政府、相互主義によるソ連案を拒否

来日中のイシコフソ連漁業相が、歯舞群島のうち水晶島周辺での安全操業は認めるが、その代償にソ連サンマ母船の日本入港を認めるよう要求しましたが、日本政府はこれを拒否しました。

6月27日

1988年(昭和63年)
ソ連側「線引きによる国境線の変更」新たに提起

モスクワで行われた栗山外務次官とロガチョフ外務次官の事務レベル協議で、ソ連側が「線引きによる国境線の変更」という新しい考え方を提起したことに対し、日本側は「北方領土問題を未解決と認めず国境の線引き問題にすりかえるのは不適切」と主張しました。
「線引きによる国境線の変更」論に安易に乗れば二島返還論の方向に流されてしまう「可能性がないとは言えない」との警戒感が強く働いたためです。

6月28日

1789年(寛政元年)
松前藩が寺社町奉行高橋又右衛門を江戸へ派遣

場所請負商人・飛騨屋久兵衛の暴虐非道に耐えかねて蜂起した「クナシリ・メナシアイヌの戦い」を報告するため、松前藩が寺社町奉行高橋又右衛門を江戸の藩邸へ派遣しました。
報告を受けた幕府は7月17日、外国につながる場所なので、鎮圧の兵が不足のこともあるだろうから津軽・南部藩に軍勢を用意させる、との指示を行っています。

6月29日

1960年(昭和35年)
ソ連政府が日米新安保条約の批准を非難

ソ連政府は日米新安保条約の批准に関連し同条約を非難し、日ソ両国関係の発展への道を開くためには同条約を破棄することが必要である、との声明を発表しました。
 この年1月19日の条約調印以来、ソ連側は数回にわたり非難、わが国もその度にこれに反論しています。今回の非難声明に対しても、翌々日の7月1日には反論の覚書をフェドレンコ駐日ソ連大使に手交しています。

6月30日

1994年(平成6年)
ロシア連邦議会顧問ウラジミール・ロパーチン氏根室を訪れる

ロシア連邦議会顧問ウラジミール・ロパーチン氏が根室を訪れ元島民らと北方領土問題などをめぐって懇談しました。
ロパーチン氏は「領土問題は日ロ間の経済、安全保障問題と合わせて検討すべき」と語り、「領土問題の解決が優先」と訴えた元島民らの考えとは開きがありました。
また、四島周辺での漁業問題では、「政府間レベルで協定を結ぶべきだ」との考えを明らかにしました。

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更新日:2018年03月01日