1月

1月

1月1日

1971年(昭和46年)
北方領土復帰促進根室青年総決起大会を開催

北方領土問題青年会議や根室青年会議所など24の青年団体が、納沙布岬で初日の出を仰ぎながら第1回北方領土復帰促進根室青年総決起大会を開催しました。

1952年(昭和27年)
スターリン首相から日本国民あて新年メッセージ
ソ連のスターリン首相は共同通信社の要請に応じて日本国民あての新年のメッセージを送りました。
「外国の占領にともない不幸な状態に陥った日本人民にたいし、ソ連国民は深い同情を寄せている」との内容でした。

1月2日

1875年(明治8年)
樺太・千島交換交渉

日ロ通好条約(1855年)では、択捉島とウルップ島の間に日ロの国境を置くことを定めましたが、樺太については国境を定めず、日ロ混住の地とされたことから紛争が絶えませんでした。
このため、樺太問題について交渉を続けていた榎本武揚全権公使に対し、ロシア外務省アジア局長ストレモウホフは、この日、1.樺太全島をロシア領とする、2.その代償として温祢古丹島以南の中部千島を日本に譲るとの提案をしました。
しかし榎本公使はこれを拒否、その後も粘り強い交渉を続け、この年5月には北部千島をも代償として譲り受けるという「樺太千島交換条約」締結をはたしました。

1月3日

1892年(明治25年)
片岡侍従が千島航海について話し合う
明治天皇の勅命で千島探検中の片岡利和侍従は、択捉島蘂取村で正月を迎え、この日、村の巡査伊藤景介や川畑庄介と今後の千島航海の打合せを行いました。
片岡利和は1836年高知藩士永野源三郎の次男として生れ、明治維新のときは征討大将軍仁和寺宮嘉彰親王に従って北越戦争に参加しました

1月4日

1892年(明治25年)
択捉島蘂取村で熊祭

片岡侍従はこの日、滞在中の蘂取村で行われる熊祭に米3俵、肉の缶詰2箱を与えました
片岡一行は前年10月に東京を出発し、11月17日に択捉島に到着しています

1月5日

2000年(平成12年)
ロシア大統領選挙3月26日に決定

ロシア上院はこの日、エリツィン前大統領の辞任に伴う大統領選挙を、3月26日に実施することを正式に決定しました。
大統領選への立候補の届け出は2月13日が最終日となり、各陣営は50万人以上の署名を併せて提出、資格審査を受けることになりました。
前大統領から後継指名されたプーチン大統領代行兼首相が圧倒的に有利と伝えられたとおり、プーチン氏が当選し、5月7日に大統領に就任しました

1月6日

1893年(明治26年)
海軍大尉郡司成忠が予備役に編入

海軍大尉郡司成忠が願いにより予備役に編入されました。
かねて計画していた千島拓殖を実行に移すため、郡司は、2月4日に築地水交社で、2月22日には華族会館で千島拓殖演説会を行い多くの人々に計画の重要性を訴えました。
こうして郡司大尉の千島拓殖計画は、当時の新聞に華々しく報道され、それを読んだ国民も国家的一大壮挙として喝采を送りました。

1月7日

1972年(昭和47年)
佐藤首相「沖縄の次は北方領土だ」と発言

佐藤首相はサンクレメンテでの日米首脳会談を終え、宿舎のニューポーターインで日本人記者団と会見し、沖縄返還のあとは北方領土の返還に取り組む必要があると述べました。
さらに「ニクソン大統領がソ連を訪問するさい、北方領土の返還についてソ連側に働きかけてもらうよう依頼した」ことを明らかにしました。

沖縄は、昭和47年5月15日に本土復帰をはたしています。

1月8日

1929年(昭和4年)
択捉島蘂取村字比良糸に鮭鱒ふ化場設置

択捉島蘂取村字比良糸に鮭鱒ふ化場が設置されました。
同島では、明治23年には栖原角兵衛が当路湖畔に簡易ふ化場を設置、ふ化伝習生を募集して技術者を養成しています。
また、北海道庁から派遣された藤村信吉技手により、各地区のふ化場建設予定地の調査が実施されるなど、古くからふ化事業が進められました。

1月9日

1969年(昭和44年)
佐藤首相が駐ソ大使に北方領土問題の解決について指示

佐藤首相は、帰国中の中川駐ソ大使に対し「北方領土問題の解決は国民の強い要望であり、機会あるごとに、わが国の要求をソ連に申し入れてほしい。自分の訪ソで有益な結果が期待できるなら出かけてもよい」と指示しました。

1月10日

1976年(昭和51年)
だ捕補償給付金支給要綱決まる

北方四島周辺海域でソ連にだ捕された漁船主、乗組員を対象とする国の「特別給付金」支給要綱が決まり、北海道水産部から発表されました。
総額77億5864万5千円で、昭和21年1月1日から昭和49年9月30日までにだ捕、抑留認定された1,064隻、7,761人を対象とするものでした。

1月11日

1971年(昭和46年)
北方海域安全操業交渉モスクワで開始

北方海域の安全操業に関する日ソ交渉がモスクワで開始されました。
これは、昭和44年9月愛知外相がソ連に北方四島周辺3カイリ水域での日本漁船の安全操業確保を申し入れたのに対し、翌年4月訪日したイシコフ漁業相による「日本側の具体的な提案を待って、交渉に入りたい」との回答を受けて開始されたものです。
イシコフ漁業省は「日本はこの交渉を領土問題と結びつけようとしているようだ。そのような要求は(略)問題の実際的処理を妨げることになろう」と発言しました。

1月12日

1983年(昭和58年)
丹羽総務長官北方領土を視察

丹羽総務長官は、北方領土返還要求運動の原点である納沙布岬を訪れ、北方の島々を視察しました。
この日は絶好の天気で視界もよく、水晶島の前には2隻のソ連警備艇も見えました。長官は「根室市民の熱い気持ちを肌で感じることができ本当によかった、返還運動が民族の悲願であることを実感した。返還運動にさらに力を入れたい」と語り、眼前の島々を前に改めて領土返還運動への強い決意を表明しました。

1月13日

1976年(昭和51年)
「日ソ共同コミュニケ」を発表

グロムイコソ連共産党中央委員会政治局員兼外務大臣は、政府の招待で1月9日から13日までわが国を公式訪問しました。
宮澤喜一外務大臣と第4回目の平和条約締結交渉を行い、領土問題では具体的な前進はみられませんでしたが、この日「平和条約を早期に締結するため交渉を継続する」との「日ソ共同コミュニケ」を発表しました。

1月14日

1963年(昭和38年)
北方領土墓参実現署名運動始める

この日、日ソ協会根室支部が「北方領土墓参実現署名運動」を始めました。
翌年5月ソ連政府は、歯舞及び色丹所在の日本人墓地への墓参に応ずる用意があると通告、この年の9月8日には、第1回北方領土墓参が実現し、水晶島に27名、色丹島に13名の遺族が墓参しました。

1986年(昭和61年)
ソ連のTVで「北方領土問題」

この日放送されたソ連国営テレビのニュース番組で「北方領土問題」という言葉が使われました。
自民党の二階堂副総裁のインタビューを紹介する番組でしたが、「北方領土問題」という言葉がソ連のテレビに無修正で流れたのはこれが初めてのこととみられます。

1月15日

1975年(昭和50年)
宮沢外相訪ソ、グロムイコ外相と会談

宮沢外相は日ソ平和条約締結交渉を進展させるため訪ソし、グロムイコ外相と会談しました。
平和条約交渉は田中角栄首相が73年10月訪ソして以来1年3ヶ月ぶりで、日ソ外相会談は16、17日の両日にわたり北方領土問題を中心に行われました。
宮沢外相は、北方四島の一括返還を強く要望しましたが、グロムイコ外相は領土問題について「現実的な処理によって平和条約を締結し、前に進むべきだ」として、現状固定の立場を繰り返しました。

1月16日

1970年(昭和45年)
倉石農相は入漁料方式を否定

倉石農相は、記者会見で北洋漁業の安全操業問題について「人道上の見地から解決を急ぐ必要があるが、国後、択捉、歯舞、色丹はわが国固有の領土であり、自分の領土に自分の国の漁民が出漁料を払うわけにはいかない」と、いわゆる入漁料方式を否定する考えを明らかにしました。

1月17日

1986年(昭和61年)
秋保光孝駐道大使が北方領土を視察

秋保光孝駐道大使が納沙布岬から北方領土を視察しました。
20年ぶりに訪れたという大使は、「北方領土は本当に近い。こんな間近に隣国がある厳しさを現実のものとして受け止めなければならない」と感想を述べました。その後、根室支庁でゴルバチョフ政権誕生後の日ソ関係を中心に最近の国際情勢について講演しました。

1月18日

1999年(平成11年)
下院副議長が国後、色丹を視察

ロシア下院のバブーリン副議長ら超党派の議員を中心とする視察団18人が、国後島と色丹島を訪れ、島民から経済状況改善の要望を受けました。

1963年(昭和38年)
ソ連抑留漁船員即時釈放の中央要請に出発

西村根室市長を団長とする「ソ連抑留漁船員即時釈放陳情団」が、中央要情のため根室を出発しました。
昭和21年から平成13年までの北方海域でのソ連(ロシア)によるだ捕は、1,324隻9,395人。昭和36年には、貝殻島沖合でコンブ船11隻、カニ船2隻、乗組員32名の大量だ捕事件が発生、高校生が2名含まれていたこともあり大きな社会問題となっていました。

1月19日

1960年(昭和35年)
日米安全保障条約の改訂に調印
岸首相はワシントンを訪れ、日米安全保障条約の改訂に調印しました。
これに対しソ連は、米国が占領中の沖縄、小笠原が日本に返還され、日本から外国軍隊が撤退するまでは、歯舞・色丹は引き渡されないであろうと反発しました。

1月20日

1961年(昭和36年)
ソ連極東軍司令官が論文を発表

1月19日の日米安全保障条約改訂調印に反発したソ連は、党機関紙「プラウダ」に極東軍司令官ペンコフスキー名で、もしソ連が歯舞・色丹を日本に引き渡すならそれはただちに、外国の軍事基地化がされるだろう。ソビエト国民はなぜ島を日本に引き渡さなければならないのか理解に苦しむ、との論文を発表しました。
次いで1月27日、グロムイコ外相は、日本から外国の軍隊が撤退するまでは、歯舞・色丹は引き渡されないであろうと声明。
これらに対し日本政府は、1956年の日ソ共同宣言に違反することだと反論しました。

1月21日

1984年(昭和59年)
北方領土の日啓発運動月間スタート

「北方領土の日」を前に、21日から北方領土の日啓発運動月間がスタートし、道内50の市町村で北方領土フェスティバルや少年弁論大会など多彩な行事が繰り広げられました。
昭和40年に始めた返還要求署名も、この年1月1日の集計で3千万人を突破。北方領土復帰期成同盟などは啓発運動と合わせ、5千万人署名に力を入れ始めました。

1月22日

1998年(平成10年)
初の日ロ外務次官級協議モスクワで開催

クラスノヤルスク合意を受けた初の日ロ外務次官級協議がモスクワで開催され、両国外相を委員長とする「平和条約締結問題日露合同委員会」を設置することで合意しました。
またロシア側は、北方四島の共同経済活動を提案しました。

1月23日

1661年(万治3年)
伊勢松坂船漂流

この日、伊勢松坂の七郎兵衛船は紀州藩江戸回米を積んで、船頭、水主および紀州藩の上乗1人の合計15人が乗り組み、志摩国鳥羽を出港しましたが、翌日から暴風のため漂流し、寛文元年7月15日(1661年8月9日)に「名もなき所」に漂着して上陸しました。
後に最上徳内は、これを択捉島東海岸北部のトシルリと推定しています。
一行は上陸した場所に12日間いて、その後3日ほどかけて島人の在所へ行き、「えとろつふと」(エトロフ)の島は船で磯づたいに南下し、「くる尻」(クナシリ)を経て蝦夷地に渡った、と「勢州船北海漂着記」に記録されています。

1月24日

1972年(昭和47年)
日ソ定期協議が行われる

来日中のグロムイコソ連外相と福田外相との第2回日ソ定期協議が外務省で行われました。
注目の領土問題については具体的な提案こそありませんでしたが、ソ連外相は従来の「解決ずみ」という態度を変えて柔軟な姿勢を示しました。
また、同外相は北方水域でだ捕された日本の漁船員14人全員を釈放することを明らかにしました。

1月25日

1925年(大正14年)
択捉島蘂取村庁舎が火事で焼失

わが国で一番早く日の出を迎える最東北端の村、択捉島蘂取村の役場庁舎が火事で焼失しました。
蘂取村は、1800年に近藤重蔵が「大日本恵登呂府」の標柱を建立した地です。

1940年(昭和15年)
細菌性流産が頻発

馬の生産は国後島の主要産業の一つでしたが、細菌性流産が頻発し、この日、種牡馬ブラック日進号が種付けした雌馬が流産。その後も流産は続き、種付けした42頭中20頭に及びました。
乳呑路と白糠泊の2村落だけでも68頭が流産したほどの流行でした。

1月26日

1980年(昭和55年)
第1回北方領土特別委員会が京都で開催
この日、京都国際会議場で「日本青年会議所1980年第1回北方領土特別委員会」が開催され全国から委員90名が参加しました。
NHK解説委員長家城啓一郎氏は、「われわれは、北方領土問題発生の真相と返還要求の原点を看過してはならない」また、「確実に北方四島が返還実現するまで要求を貫き通すことである」と講演しました。

1月27日

1960年(昭和35年)
歯舞・色丹2島は引き渡さないと声明
グロムイコ外相は、沖縄・小笠原が米国から返還され、日本から外国軍隊が撤退するまで、歯舞・色丹2島は引き渡さないと通告してきました。
これに対し日本政府は、沖縄・小笠原を云々するのは内政干渉であり、歯舞・色丹の返還に条件を付けることは、日ソ共同宣言に違反することだと反論しました。

1月28日

1944年(昭和19年)
多楽島へ超短波無線電話が開通

多楽島へ超短波無線電話が開通しました。
昭和6年から実用化の研究を始め、9年9月北方地域との伝播試験を行い、この日開通となったものです。
北方領土との通信は、明治30年に国後島泊村及び択捉島紗那まで海底ケーブル等による電信で結ばれたのを皮切りに整備が進み、その後、昭和10年には根室・国後間に電話が開通していました。

1月29日

1924年(大正13年)
国後水産会が設立

国後水産会が設立されました。
前年11月には択捉にも設立されており、国後に次いで2月には色丹と、相次いで設立されています。
水産会は水産製品の検査などを行なう組織で、水産の指導奨励、講習会、品評会等を行い、漁業生産の向上をはかる重要な機関でした。

1月30日

1990年(平成2年)
在京ソ連外交筋、日本政府の「混住地域とする方針」には賛成

北海道新聞は、在京ソ連外交筋がこの日、日本政府が北方領土が返還された場合、この地域を日本の主権下で日ソ両国民の混住地域とするとの方針に「主権の問題は難しいが、個人的には混住地域とする案には賛成」と語ったと伝えました。
さらに「将来的には、こうした方法で解決が図られるのではないか」と述べたものの、主権を日本に引き渡すことには依然難色を示したとも伝えました。
日本政府は「北方四島の主権が日本に帰属することが前提条件だ」としています。

1月31日

1955年(昭和30年)
二島返還の報道を受け陳情電報

北海道附属嶋與復帰懇請委員会が鳩山総理大臣、重光外務大臣等に陳情電報を打電しました。
当時、ソ連が色丹、歯舞を返還する用意があると政府に申し入れたと新聞が報じたことから、「(2島返還は)当然のこと」だが「北海道の附属諸嶋でありわれら祖先が300年の永きにわたり営々辛苦して開拓した国後、択捉両島も併せて要求」するよう要請する電報でした。

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更新日:2018年03月01日