第31回

 ロシアはいわゆるワークシェアリングの発達した国で、一人の人間が複数の仕事を兼務するということがあまりない。
 例えば経理担当といえば従業員4〜5名くらいの小規模経営であっても経理専任で、日本のように経理のおばさんが本業の片手間にお茶汲みから何からてきぱきとこなすといったようなことは、仕事がいかに暇な時であってもあり得ない。
 ロシア船にあっても似たような状況がみられ、船には必ず専業コックが乗船している。
 それは乗組員6〜7名の小型船であっても例外では無い。
 面白いのは、調理以外の荒仕事が免除される為か、コックとして女性船員が乗船していることがたまに見受けられることだ。  確かに、「コックが酔っ払っちまって、飯を作ってくれない」という事態は無くなるかもしれないが、日本的感覚からはかなりかけ離れたシステムだ。
 さすがに風紀上の問題故か妙齢の女性を見かけることはなく、例外なくがっしりとした典型的なロシアのおばさん風ではあるが、それでもむくつけ男に混じって、それなりに華やいだ存在ではある。
 先日、花咲地区の某美容院から電話通訳の依頼があった。
 「4時までに船に戻って夕食の準備に取り掛からなければならない。
 出来るだけ早くやって欲しい」ということだったが、「黒髪の部分はワインレッドに、白髪の部分は鮮やかな赤系に染めて欲しい」等々、船上の紅一点・ロシアおばさんの注文は細かく、通訳は難儀を極めた。


 第32回

 最近、花咲在住のKさんが持って来てくれる新聞のスクラップブックを読ませていただいている。
 これは、Kさんが昭和三十年代から現在に至るまで、某紙に執筆を続けられている花咲地区の記事を綴じたもので、花咲の今昔を知る上で非常に貴重な資料である。
 人づてに聞いてはいたが、昔日の花咲の繁栄振りの程は記事からも如実に伺われ、春からの鮭鱒、夏からのイカ・サンマ漁期の記述には凄まじいものがある。
 休漁日には、四、五百艘の係留船からはじき出された六、七千人もの船員達が狭い花咲地区に溢れかいり、当時軒を並べていた飲食店・映画館・パチンコ店などは昼夜を問わずの大盛況であったことがわかる。
 地区の古老も語っている。
 「ロシア船員の悪さなんかたいしたもんでない。
 あの頃は、日本中から集まって来た荒くれ漁師が酔っ払って騒いで、駐在なんか手錠が足りなくなって、どうしようもないのは電信柱に荒縄でくくりつけられていたもんだ」。
 そんな花咲港もその後の日本の漁業がたどった道ほどに例外ではあり得なかったが、平成に入ってから始まったロシア船の入港規制緩和によって、少しだけ光がさすようになった。
 「店閉めようと思ったところにロシアが来るようになって、十年長く店がもった。
 物を盗まれたりもしたけれど、掛でしか買わない日本人と違って、現金買いしてくれるのがうれしかった」。
 高齢で雑貨店を閉めることになった老婆が以前に話してくれた。
 盛期に建てられたとおぼしき家々が今でも過半を占める花咲の街並みは昭和三、四十年代の雰囲気を色濃く残し、木造モルタルの店舗に揚げられたロシア文字の看板が、それにエキゾチックなアクセントを添えている。
 一見ミスマッチと思えるこの奇妙な景観には不思議な風情が漂い、ロシア船が入港する他の港では見られない独特なものを醸し出している。


第33回

 昔は図書館を利用したことはほとんど無かった。
 本は自分の読みたいものを、本屋で買って読んでいた。
 サハリンで暮らすようになってからも、最初のうちは、帰国の折にまとめ買いして来たもので賄っていたが、子供が生まれ、かの地での滞在日数が長期化していくにつれて、そうもいかなくなってきた。
 「何でもいい から新しい本が読みたい」。
 かといって、辞書片手に何とか理解できる程度のロシア語なんか、「かったるくて読んでられない」。
 フラストレーションが相当にたまってきた頃、「一度ロシアの図書館でも見てみようか」と立ち寄ったユジノサハリンスク市立図書館に、日本書籍コーナーがあることを発見した。
 日本人の利用者は初めてのこととて、一回の貸し出し冊数5冊につき500ルーブル(当時約2,500円)の保証金を積まなければならないなど、いささか面倒な手続きが必要ではあったが、3棚で計6、700冊の蔵書数は欲求不満の解消に十二分な量だった。
 国境を越えた逃避行で有名な故岡田嘉子さんの署名入りなどという稀覯本もあり、日本に住んでいたなら決して手にしなかったであろう類も、随分と読むことが出来た。
 根室で暮らしている現在、大型書店が存在しないという要因もあって(書店での注文購入というのはどうも馴染めない)、市立図書館は頻繁に利用させていただいている。
 職員の方たちはとても親切だ。
 開架していない本など、階上の書庫から小走りで持って来て下さる。
 そして、何よりロシア関係が充実している。
 司書の方の話では、文学を除いても200冊はあるらしい。
 無論、それは膨大な量に上る四島関係のものを含まないでの数字である。


第34回

 以前にも書いたことがあるが、来館するロシア人が領土問題を口にすることは極めて稀だ。
 先日、その稀なことが起こったので、以下に記してみる。
 その若者の話し方は最初は穏やかだった。
 センターの壁面に掛けられている地図の国境線(択捉・ウルップ間)から下を指指しながら、どっちの領土だと思うかと、静かに聞いて来た。
 「自分は日本人だから、もちろん日本領だと思う」と軽く受け流したところ、「自分は国後生まれの国後育ち、日本領だとするならば自分は何処に住めばいいんだ」と、やや語気を荒げて切り返して来た。
 「別に日本領だとしても、国後に住み続けることは可能だろうし、ロシア本土へ帰りたいというロシア人には、日本政府が何らかの支援を考えてくれるんじゃないのかな、おそらく」。
 努めて平静に返答したつもりだったが、それがとても承服しがたいものだったのか、若者はそれから急に声を上ずらせ始め、「日本領になったらそれは日本だろ、今までみたいに自由には暮らせないさ」。
 「俺のママはポーランド生まれだ。帰るといって何処に帰るというんだ。それに、パパの故郷というわけにもいかない。なぜなら、俺はパパの顔を知らない」。
 後は興奮に任せて、「日本は戦争に負けたんだ。ロシアがドイツにかかりっきりになっていると思って、油断していた結果だ」と、とりつく島が無い。
 若者の話に同情は感じたものの、それはさすがに忠実にもとる。
 切れ目無く声を発し続ける若者の間隙をついて言い返すべく、「不可侵条約ってなんていうんだっけ」とロシア語を組み立てているうちに、こんな日本人と話していてもらちが明かないと思ったのか、言うべきことは言い切ったのか、それでも「ダスビダーニャ(さようなら)」とだけは言い残して帰っていった。


第35回

 開館時間を待っていたかのように、月曜日の朝9時きっかりに老船員が入って来た。
 ひどくやつれた様子だ。
 座ることを勧めると黙ってうなずき、おもむろに話し始めた。
 「私はロシア船の船長だが、金曜日に私と同じ船で働いている息子の○○○が万引きで捕まった。たったの120円のCDディスクだ。
 警察とのやり取りを通訳してくれた人間の話では、拘留期間など確定的なことはまだ何も分からないということだった。
 我々の船は今週中にロシアに帰港しないと大変な問題になる。
 息子を置いて行くことも考えられるが、出港時と帰港時で乗船員数に違いがあるのも、それはそれで大きな問題となる。
 具体的な拘留日数、あるいは罰金刑への変更の可能性について、今一度、警察に聞いてみてはくれないか」。
 月曜日の朝っぱらから警察に電話というのもあまり気が進むものではないが、『ロシア船員よろず相談所』としては致し方が無い。
 その旨聞いてみた。
 「それらのことは警察が決めることではないので、現時点では何も申し上げられません」。
 金曜日と同じ返答を聞いた老船員は、足取りも重く立ち去った。
 一方でこんな父娘もいる。その一週間後のことだ。
   「これは私の娘で、現在仙台の大学に留学中だ。
 長らく会っていなかったが、今度船員として日本に行くことになったので、船舶電話で連絡を取って会うことを計画していた。
 寄港地は根室でちょっと遠かったが、娘はちゃんと来てくれた。今から駅まで見送りに行くので、タクシーを呼んでもらえないか」。
 うれしさを何かで表現したかったのだろう。
 一時間後、タクシーを呼んであげただけの人間に、大きなチョコレートの包みをもってやって来た。


第36回

 昔、地理の時間に"便宜置籍船"という言葉を習った覚えがある。
 船舶に対する税金の安いリベリアとかパナマに便宜上船籍を置いた船のことだ。
 共産主義時代には国有船しかなかったロシアでも、近年この便宜置籍船登録を行う船主が増え、花咲港でもパナマとかベリーズとかの旗を揚げた"ロシア船"がかなり見受けられる。
 2年くらい前のことだったろうか、見慣れない旗が翻っていると思ったら、アンコールワットの描かれたカンボジア国旗だった。
 海とは縁遠いイメージのあるカンボジアの旗には少なからず違和感を覚えたものだったが、海岸線の無い国ではないし、国庫収入を増やすべくカンボジア政府も大変なのだろうと、まあ、ある程度普通に受け止めていた。
 ところが、最近、ちょっと普通に受け止める訳には行かない国旗を掲げたロシア船が入港して来るようになった。  モンゴル国旗だ。
 確かに、地図を見ると、モンゴル北部の河川はバイカル湖に注ぎ、エニセイ川を下り遠く北極海に出られるようにも見える。
 同様に東部の河川はアムール川の支流としてあり、オホーツク海を経て花咲港に繋がっているのかもしれない。
 それにしてもだ、ロシア船主の節税対策に横やりを入れるつもりは毛頭ないが、どこか別の国を選択することは出来なかったのだろうか。
 "カニ船にモンゴルの旗"では、不釣り合いの極みではないか。


 第37回

 ロシア人と一緒に暮らしていると不思議なことが多々ある。
 その大半は気質面に関することだが、 体質面というかなんというか、そっち方面にも不思議なことが結構ある。
 まず、ロシア人は蚊に刺されない。
 根室では年に何回も無いことだが、暑苦しくて窓を開けたまま寝る時など、  筆者もハーフの娘も普通に1,2箇所は刺されて朝を迎えるのだが、 かみさんは全くの無傷のままである。
 蚊のうようよ生息しているサハリンで日露合同アウトドアに参加した時など、  日本人は決まって何10箇所も刺されたものだが、 ロシア人は全く刺されないか、多い奴でも数箇所の被害で済んでいたものだ。
 蚊に好まれる民族あるいは人種の血とかあるのだろうか。
 皮の厚さということも考えられるが、 ロシア人は面の皮は多少厚いが皮膚は薄く血管が透けている。
 強いて言うならば、ヨーロッパロシアと極東を、 世界有数の蚊の巣窟・シベリアを経て移動を繰り返し、 現在に至る何世紀かの過程の間に、そういった民族的体質が形成された、 ということかもしれない。
 次に、ロシア人は寝返りを打たない。
初めてサハリンへ行った時、あのロシア人の体格をして、 日本のシングルの3分の2位の幅のベッドに寝ているのには驚いたものだ。
 現在では状況も変わっているのかもしれないが、 10数年前は何処の家に行っても共産時代のスタンダード規格なのであろう幅70cm位のそれか、 ソファベッドしか置かれていなかった。
 謎は、かみさんと暮らし始めてからすぐに解明された。
 まったく微動だにしないのだ。
 仰向け横向きと、その日の気分によってあるようだが、 こうと決めて寝入ったならば朝までそのまんまである。
 ロシア人と暮らす他の日本人多数からも、  同様の報告がなされていることから、 このことは民族一般に共通することと言ってしまって差し支えないようだ。
 最近になって、19世紀ロシアの風俗を描いた英国人の著作を読む機会があり、 長年の疑問が解消されうる記述に巡り会う事が出来た。
 「ロシアの農民の子供は、暖炉よりも高い壁面に据えられた、 狭い木棚の上で寝せられている。」


 ――第38回――

 昨今、北海道限定でのサマータイム導入の機運が高まりつつあるようだが、このことは必然的に道外との間に1時間の時差を生むこととなる。
 サマータイムが生み出すであろう効果の程はさて置き、時差がもたらす弊害を危惧する向きも多いと聞く。
 確かに、東京の会社の札幌支店員などは毎日1時間余分に働かなければならないのかもしれないし、下世話なところでは、12時閉店と決まっている風俗店など、陽があるうちには入店したくないという向きも多いだろうから、実質営業時間の短縮ということになるのかもしれない。
 だが、日本に上陸しているロシア船員を見ている眼で言うならば、ほとんどの道民、また道外からの観光客にとっては、それは無用の心配であるように思える。
 ロシア船内ではロシア時間(サハリン州や沿海州の船の場合日本より1時間早く、4月から10月までのロシアでのサマータイム施行期間中の現在は2時間早い)がそのまま使われ、食事時間帯も定められている為、短時間の日本寄港中に日本時間に時計を合わせる船員はほとんどいない。
 「花咲港へ帰る終バスが6時ということは、俺達の時間では8時だな」と、普通に対応している。
 これだけならばたいしたことはないが、続きがある。
 1分50円位でロシアに携帯から電話がかけられる時代になり、ほとんどの船員がその恩恵を被っている訳だが、ロシアという国には全部で11の時刻帯が存在する。
 「根室は今朝の10時だから、俺達の時間では正午、モスクワの家に電話をかけたいが、向こうはまだ朝の5時だから、もうしばらく待とう」。
 あるいは逆に「カムチャッカはサハリンより2時間早いから日本とは4時間、1時までに競りの値段が出ないと、報告する前に会社の連中は帰っちまうぜ」。
 といったようなことを、彼らは日常茶飯にこなしているのだ。
 ロシア人に出来て、日本人に出来ないということはあるまい。それもたったの1時間、本州が遅れてついて来るというだけのことだ。
 サハリンに於けるカムチャッカのように、北海道より先に進んでいるところは無い。一方方向だけの時間の流れならば、こんがらがることもないだろう。


 ――第39回――

 かみさんのアンナがサハリンへ里帰りした。
 冬場の休航期間を経て4月から運航が再開された稚内―コルサコフ航路を利用したわけだが、昔と比べると随分と利便性が高くなったものだ。
 なにしろ、夏場は週に2便は運航している上に、往復チケットが3万円で買えるようになった。
 函館・千歳からユジノサハリンスクまで直行便が飛ぶ以前はそれは大変だった。
 札幌在住者を例にとるならば、札幌―新潟―ハバロフスク―ユジノサハリンスクと3度のフライトに加えて、途中最低一度はホテルに泊まらねばならず、料金も往復20万円位かかった。
 当時はロシア語も解せず、深夜のハバロフスク空港の乗り換えで他に日本人客が誰もいなかった時など、相当に心細かった。
 ようやくサハリンに着いたその日の夜、中心街で二人組にピストルを突きつけられ、カチッと引金を引かれ、¥$ルーブル合わせて3万円盗られたこともあった。
 いったいなにがうれしくて、そこまでしてロシア通いをしていたのか、わがことながら今となってはさっぱりわからない。
 だいたいにおいて、早い時期にロシアとかかわったやつほど、損をしている。  十数年前、極東ロシアには多くの日本人が進出した。金と時間と危険をかけて、やっと契約にこぎつけた当時の日本人達の何%が、今もロシアとの商売を続けているのだろうか。  後から来たちょっとばかし金持ってる新参者に乗り換えられ、さんざんつぎ込んだ挙句金の尽きた奴は相手にされない。  ホストクラブか?ロシアは。
 パイプラインが中国に向けて施設されそうな雲行の『サハリン1』なんかもそうだ。
 ユジノには30年以上も前から関連商社マンが駐在していた。
 その頃中国は一体何をやっていたんだ、文革じゃないのか。
 かみさんの里帰りの話を書き始めたはすが、ピストルのくだりあたりからだんだんと腹が立って来た。
 どうにも止まらない、「アーニャ、早く帰って来いよ!」。
 捌け口がないとロシアの悪口ばっかになっちまいそうだぜ、久々復活のこのコラム。


――第40回――

 日曜日に近所の公園で遊んでいた娘のナオミが半泣きになって帰って来た。
 聞くと、一緒に遊んでいた近所の男の子達に、「ロシヤ人!北方領土返せ!」と何度も言われたのだと言う。
 2年前に、「おそろしや ころしやろしや おそろしや」とやられたことは以前に書いたが、小学校も高学年になって来るとやり方も進化して来るようだ。
 「パパ、早く公園に行って男の子達に何か言ってやってよ!」と、ナオミはしつこく言うが、別に彼らに悪気があるようにも思われないし、だいたいが子供同士のいざこざだ。
 それに、筆者自身かみさんのアンナに向かって、「ロシア人さっさと島返せよな!」なんて日常口走っている手前、面映くもある。
 結局、懇願に負けてくわえ煙草で公園に出向き、「おじさんも北方領土は返して欲しいと思っているけどさ、ナオミには関係ないことだろ。 もう、言うなよな。」ということでけりはつき、子供達はまた一緒に遊び始めた。
 現在根室市には、うちの娘のようなハーフではなく、ロシア人両親から生まれた就学前児童が少なくとも5人はいる。
 北方領土問題が日本側の納得のいく形で解決されない限り、彼らの前途にもおそらく同様なことが待ち受けている可能性は高い。
 ロシア人の親だけではなく善意の日本人の目にも、ロシアの子供には何の罪も無いのに可哀相にと映り、由々しき問題であると声を荒げる向きが出てこないとも限らない。
 だが、そういった問題は異民族との共生において、ある程度つきものなのではないのだろうか。
 たぶん、世界に冠たる多民族国家ロシアでは、あっちこっちで「返せ」だの「出てけ」などといったやりとりが、遊びと喧嘩の合間に繰り広げられていることだろう。
 無論、ものには限度が必要だが、そう神経質になることもないだろう。
 共生とは、そういった避けては通れない部分も含んでの共生なのだろうから。


 第41回

 3月1日から100t以上の外国船に「船主責任保険」の加入が義務付けられた。
 当初、ロシア船の入港減少が危惧されていたが、花咲港に限って言うならば杞憂に終わった感が強い。
 インフォメーションセンターの入館数も3月・4月とほぼ例年通りに推移している。
 例年と違うことといえば、以前は見かけなかったロシア船が多数入港して来るようになったことだ。
 事情通にいわせると、主に稚内に入港していた船らしい。
 そのせいか、最近は変わった応対を迫られることが多い。

 ●「ロシアへの送金は何処で出来る?」 → 「花咲地区では出来ないので、市街地の銀行へ行って下さい。
 但し、送金は本人が日本に住所を有していることが条件です」 → 「どういうことだ、俺は稚内では普通に送金していたぞ!」。

 ●「プリペイド式携帯電話は何処で買える?」 → 「何軒かありますので、今場所を説明します。
 但し、購入は本人が日本に住所を有していることが条件です」 → 「何だって、稚内では普通に買えるぞ!」。

 ●「母乳の出が良くなる薬を買いたいと、日本語で書いてくれないか」 → 「この間もそういう問い合わせがあって調べてみましたが、薬草茶のようなものは売っていますが、薬は売っていません」 → 「俺の友達は、稚内で買ったって言っていたけどなあ」。

 ●(釣具店からの電話通訳)「釣針に吹き付けると餌なしで魚が釣れるスプレーが買いたいと、言っていますが」 → 「うちには置いてないし、そういう物があるっていう話も聞いたことがないですねえ」 → 「稚内では売っているって言ってますけれど」 → 「いやあ、そう言われてもねえ」。 稚内でのロシア船員は他港ではみられない優遇を受け、彼ら向けの稚内限定オリジナル商品も売られているかのような話だが、無論、真偽のほどは定かではない。


第42回

 ロシア人力士の露鵬とモンゴル人横綱の朝青龍が夏場所を前にしてひと悶着起こしたようだ。
 憶測の域を出ない話だが、トラブルの原因はロシア語にあったのではあるまいか。
 モンゴル人は相当程度にロシア語を解す。朝青龍もたぶん例外ではないと思われる。
 ロシア革命とほぼ時を同じくして、モンゴルでも共産主義革命が行われ、その後、中露の国境に挟まれながら、遊牧民族として古来中国とは相容れない彼らはロシアに接近し、乱暴な言い方を許してもらえるならば、ソ連邦の一共和国であるかのようにして、およそ70年間歩んで来た。
 すぐ北に位置するロシア領ブリヤート自治共和国はモンゴルに極めて近い民族で構成され、彼らはロシア語をネイティブのように話す。
 モンゴル語自体にもカランダーシ(鉛筆)のようなロシア語からの借用が極めて多く、1944年からはロシア文字がモンゴル語の筆記に正式採用されてもいる。
 言葉がわかるということは、マイナス面で言うならば喧嘩が起こる可能性が飛躍的に高まるということである。  モンゴルに対する親方意識が抜けきらない露鵬が、憎たらしいほど強い横綱朝青龍に対し、筆頭とはいえ前頭の分際で、禁じ手の卑猥語(性に関する言葉から派生した罵(ば)り文句、辞書には載っていないが老若男女を問わずロシア人は皆解す)を口走ってしまった。
 ありそうな話ではある。
 今場所はこのふたりに加え旧ソ連邦グルジア出身の黒海、ロシア語に非常に近いブルガリア語を話す琴欧州、その他のモンゴル出身力士6名と総勢10名、幕内で取組みを行っている外国人力士の全員がロシア語を解するという(たぶん)、異常事態となっている。
 一度、彼らが共通語のロシア語(?)でコミュニケーションしている場面を見てみたいものだ。


第43回
 ロシア本国から遠く離れて居住する四島住民は、海産物の引受け先・生活物資の購入先としてはもとより、日本政府が行っている各種支援事業等、日本に隣接する恩恵を多大に被っている。
 まあ、そんなことは誰もが皆百も承知のことだが、この間来館した国後に住むという老船員の話は彼らが受けている恩恵の意外な面も教えてくれた。
 彼が住む地域はNHKの映りが良いため、天気予報に関しては完全に日本のテレビ情報に依存しているという。
 サハリンからの天気予報も映りはするが、クリール地域はほとんどお座なりにされている上、予報精度も低いらしい。
 また、台風情報などは相当北へ移動してからではないと取り上げられないという。
 較べて日本の情報はしつこいくらいに丁寧で、彼の地から数十キロ離れただけの根釧地区の予報も、当然詳細に知ることが出来る。
 ただ、難点がひとつだけあり、北海道地図上に表される天気マークは無論、天気図も理解出来るが、地域別に表で示される数時間おきの天気予報については、地名の漢字が理解出来ないのでよくわからないという。
 何を言わんとしているのか話の途中で理解できたので、フショー パニャートナ(全部わかった)と、ロシア人特有の長話を遮り、パソコンのスイッチを入れた。
 真面目に受信料を払っている身としてはかんに障りもしたが、根室・釧路・羅臼・斜里と、老船員向けにワープロ4倍角で打ち、ロシア文字のルビを振った上で北海道地図に貼り付け、渡してあげた。
 日本人って親切すぎるのだろうか・・・。


第44回
 今年に入ってから北方領土問題を取材する外国人記者が相次いで来根している。
 まず最初、3月にやって来たのはロシア船員向けにインフォメにも配備されているロシアの著名な週間新聞紙『アルグメンティ イ ファクティ(論拠と事実)』(公称発行部数一千万)の記者で、いきなりやって来て藤原根室市長にインタビューなどして帰っていったらしい。
 4月に二週連続で掲載された特集記事を読んでみたが、ロシア人のかみさんでさえ掲載面をあちこち指差しながら「コレハ ウソダネ コレモネ」と言っていたぐらいで、論拠無き事実無根が随所に見受けられた。
 特にかんに障ったのは、『開発途中の北海道を有していながら、なぜ日本は新領土を欲するのか』云々といった下りで、あれだけの広大な土地を開発も出来ずに不毛のまま放置している国の人間が何をやいわんや、「ロシア人にだけはそんなこと言われたくは無いぜ!」と、激しく憤ってしまった次第である。
 次にやって来たのは、日本同様ロシアと国境問題を抱える旧ソ連邦構成国の一員だったラトビアは『ディエナ』紙の記者で、彼は日本側の穏やかな返還運動振りに少なからず肩透かしを食らった模様で、さすがはロシアに辛酸を舐めさせられ続けてきた国の人間らしい反応だったようだ。残念ながら掲載紙はまだ手にしていないというよりも、ラトビア語を読める人間を探すことなど至難の業故、記事の内容についてはたぶん確かめようが無いだろう。
 三人目はインフォメにやって来た。
 東京在住のスイス人記者で、モスクワで勉強したという流ちょうなロシア語を話した。
 彼から発せられた質問はほんのわずかでたわいの無いものだったが、昨年の夏には択捉で取材をして来たと語っていた。
 ロシアとの領土問題など抱えない第二次大戦にも不戦だった国の人間が、何をどう書くのか。
 名刺に書かれている『DIE WELTWOCHE』東京支局に電話して送って貰おうかと考えている。  ドイツ語を読める人間ならば、身近かな所でも一人や二人探せるにちがいない。


第45回

 5月の末に高橋北海道知事をはじめとするビザなし訪問団が国後を訪れた際、コサックを中心とするいわゆる愛国主義者達が横断幕を張って迎えた。
 その中のひとつにロシア語で、「日本人よ"カチューシャの歌"を忘れるな、我々はいつでも歌える」といったものがあったと、ロシア語に堪能なビザなし訪問参加者がその時の写真を指差しながら教えてくれた。
 日本でも有名な"カチューシャの歌"は、今年の5月9日モスクワで行われた戦勝六十周年記念式典のニュースで流れていた。
 題名は忘れたがダルコフスキーの映画の中のベルリン入城シーンでも流れていた。横断幕の意味するところは、たぶん、「日本人よロシアの勝利の歌を忘れるな、我々はいつでも歌える」ということなのだろう。
 去年の9月にビザなし交流で初めて国後を訪れた時、交流会でのロシア側の最初の演目は少女達による合唱だった。
 暗く哀調を帯びた旋律が妙に心に残ったので側にいたおばさんに曲名を訊いてみた。
 「戦場へ行った兵士達の母の歌」という答が返って来た。
 どうもロシア側は、「戦争の結果として四島はロシア領としてある」という彼らの言いぶんを、流石に火事場泥棒としての負い目がそうさせるのか、歌に託するのがお好きなようだ。
 ところで、歌の話にはもう少し続きがある。
 数日前、辞書を引いていた時のこと、女性の愛称カチューシャのすぐ上に、スペルの同じもうひとつのカチューシャを発見したのだった。
 早速帰宅途中に市立図書館に寄り、調べてみた。
 簡単に見つかった。
 「ソ連のロケット砲といえば、「カチューシャ砲」として知られる砲兵ロケットが一番有名だが、(中略)「カチューシャ砲」が何十台も横並びになって、敵戦車に向けて一斉にロケット砲を放つ光景は壮観である。
 ドイツ兵はその独特の飛翔音を、「スターリンのオルガン」と呼んで恐れたという。」
 学習研究社刊一ソビエト赤軍興亡史V一より


第46回

 「ここに来れば、翻訳をやってもらえると聞いて来たのだが」。
 「あまり長いものや難解なものには応じられないけれど、まあ、とりあえず原文を見せてくれ」。
 「文章は無い。俺がこれから話すことを日本語で書いてもらいたいんだ。ところで、あんた、ストラディバリって知っているか」。
 「17世紀頃のイタリアの有名なバイオリン製作者だろ」。
 「OK!知っているなら話はスムーズだ」。
 『私の所有するバイオリンはアントニオ・ストラディバリが一番弟子として師事していたことで知られる、ニコロ・アマティが1642年に製作したもので、ちまたではグランドアマティとして知られているもののひとつである。
 第二次世界大戦後の混乱期に、某ソビエト陸軍高官がベルリンからモスクワに持ち込み長く秘持していたが、ソビエト時代の末期1989年に、アルコールに溺れ生活に窮していた高官の息子によってノボシビルスクで売却された。
 1996年に私が買い取ることとなったこのバイオリンは、現在ロシアの銀行金庫に保管されている。また、鑑定書は現時点で150万$で購入の意思を示しているカザフスタン人が、アルマアタで保持している。私はこのバイオリンを、日本で少なくとも300万$で売りたい』
 「翻訳料だが、日本で売れてからの後払いでいいか」。
 「後払いもなにも、これは私の仕事だから代金は不要。日本の公務員はロシアと違って金は受取らない」。
 「そんなこと言っていると後で後悔するぞ。俺が払うって言っているのは半端な額じゃないからな」。
 なんだか懐かしい気分になってしまった。90年代の前半、サハリンではこんな話があちこちにころがっていた。
 ウラジミール(ロシアの古都)のウスペンスキー寺院で飾られていたという16世紀のイコンやら、ウラジオの倉庫で眠っているという230tの冷凍鯨肉やら・・・。


第47回

 刺し身は日本独自の食文化だが、魚を加熱処理せずに食べるということで言うならば、ロシアにもそれ相応の伝統がある。
 代表的なものでは塩や酢で漬けたニシン(そもそもロシア人は火を通したニシンは食べない)、生とは言えないがスモークサーモン、それにイクラやキャビアなんかもその部類に入るかもしれない。
 そのせいか、すし・刺し身はもとより、飯鮨・塩辛なんかも苦にせずに食べるロシア人は多い。
 日本食は何でも食べるかみさんのアンナも無論その例外ではないが、彼女の場合は超越している。
 何しろスーパーで売っている生の鮭鱒に塩を振ってそのまんま食べてしまうのだ。
 (さすがに塩をした後5分位は置くが)。
 腹身の部分は特においしいらしくチュパチュパせせるようにして食べている。
 サハリンの港町に住む父親から教わった食べ方だそうだが、見ていて決して気持ちのよいものではない。
 娘のナオミなんかはこれが始まると、彼女との間にティッシュやビール瓶で壁を築いて飯を食うぐらいだ。
 ところで先日、ロシアの水産会社の社長から銀がれい(主にオホーツク海で漁獲される体長1メートル位の魚で脂が乗っている)のルイベ状のものをもらった。
 洋上、獲れたてをさばいた身に岩塩をすり込んでロール状に丸めて縛り、マイナス70度の瞬間冷凍庫に放り込んだもので、彼の特命を受けた船のコックが作ったものらしいのだが、これが予想に反して旨い。
 薄切りにしたやつを(もちろん醤油はつけない)、冷蔵庫に入れてあるトロトロのウォッカと一緒にやると、またこれがひどく旨い。
 社長はこれを自社の冷凍庫に、自分と友達の為だけに大量にストックしているらしい。
 レストランよりも家庭にうまいもののあるお国柄、ロシアの一部特権階級の家にはこれに類した以外な美味が隠されているのかもしれない。


第48回

 ロシア政府は四島のインフラ整備のために、10年間で1000億円の大型予算を組むことを計画していると、各種メディアが伝えている。
 確かに、原油高の追い風を受けてロシアの国庫収入は大変な潤沢振りらしいが、人口1万人強の四島に対して、あまりにも額が多過ぎやしまいか。
 何しろ、住民1人当たり換算年額約100万円が10年続く計算になってしまうのだ。ちょっと乱暴かもしれないが、この100万円を北海道の人口に当てはめてみると、北海道の年間開発予算5兆5千億円という途方も無い数字になってしまう。
 こんな突出した予算額では、他地域の住民も黙ってはいないだろう。
 今年の春、かみさんのアンナは石油開発で沸き立っているというサハリンに里帰りして来たが、「着いた日から丸2日間停電が続いた。
 何にも変わっちゃいない」と、嘆いていた。
 というわけで、こんな大開発計画がはたして四島で実行されるのか否か、はなはだ懐疑的にならざるをえないのだが、開発に絡んで、素朴な疑問がひとつある。
 予算の多くが投下されることが予想される国後には、一応港というものがあるにはあるのだが、港内の水深が3メートルにも満たない為、ビザ無渡航で使用される450トン程度の船でも沖泊まりしか出来ず、揺れる海の上、艀に乗り移って上陸する以外に術が無い。
 人間の上陸ですらこの有様なのだ。
 土木作業に必要不可欠なブルドーザーなんかはどうやって陸揚げするのだろうか。
 ブルドーザーの分解組立てがそう簡単なものとは思えない。
 大型軍事ヘリコプターでも飛ばして沖合いから吊るして持ってくるのだろうか。
 それとも、戦車揚陸艇を出動させるつもりなのか。
 いずれにしても難儀なことである。


 第49回

 花咲港に入港するロシア船数は2002年あたりを境目にして、徐々に減少している。
 資源の枯渇を要因に挙げる声も多いようだが、海産物の年間輸入量自体にはそれほどの変化も見られないため、操業船と運搬船の役割分担が明確になって来たことが直接的要因であるように思われる。
 以前は操業船各自が自分たちの獲った物をそのまま日本に運んでいたものを、運搬船に集中して運んで来るようになったということだ。
 その一方で、この数年長期間にわたって滞在していく船が増えて来た。
 造船会社のドックには、ロシア船が常時ニ・三艘は修理のため上架されている。
 また、何が原因かはわからぬが、数ヵ月、中には半年以上も停泊しっぱなしの船もしばしば見受けられる。
 大抵が四島出身ではない、サハリンや大陸出身の船員が乗った船だ。
 滞留している船は稼ぎを産まないため、給料も未払いのことが多いと聞く。
 船員は動かない船の中でくすぶっているしかなく、気晴らしに本やらビデオやら娯楽を求めて、あるいはかみさんのアンナに愚痴をこぼしに、インフォメーションセンターにやって来る。
 そういった奴らは以前よりも確実に増えている。
 金も無く、帰国のめども立たない状況下では船内の人間関係もよどんで来るらしく、半月ほど前には、これ以上船では生活できないと、日本の警察に保護を求める船員がやって来た。
 経済の好況が伝えられるロシアでは、雇用状況も賃金も以前に比して大幅に改善されているというが、何ヶ月も家族とも会えず、不安定な労働条件にも関わらず、依然として船員のなり手は後を絶たないという。


第50回

 来館するロシア船員の対応で困ることのひとつに、病気の相談事がある。
 症状については何とか理解できるのだが、ロシア語の病名にわからないものが多い。
 そこで露和辞典を差出して自ら引くことを奨めるのだが、大抵の船員は尻込みする。
 何度か対応しているうちに、彼らに辞書を引く習慣が無いこと、そしてそれ以前に、どうやらロシア文字の順番を知らないことがわかってきた。
 例によって、その辺の疑問をかみさんのアンナにぶつけてみた。

「日本では最初にカナの順番を習うけれど、ロシアの学校ではやらないわけ?」
 「もちろん最初に習うけれど、字を覚えたら順番なんか忘れちゃうわね。必要ないから」
 「でも、辞書を引くには絶対に必要じゃないか」
 「学校で辞書なんか使わないもの」
 「意味やスペルがはっきりしない時なんかは、どうするんだよ」
 「先生に聞けばいいじゃない」
 「学校出てから、本や新聞の中に知らない言葉が出てきたりした時は」
 「家族とか周りの人に聞くわね」
 「周りの人も知らない時は」
 「あなた、相変わらずしつこいわね。周りの誰も知らない言葉なんか、知っている必要 なんかないじゃない」
 「・・・・でも、やっぱり、辞書くらい引けないと・・」
 「そうかしら。だって他ならぬ私も、外国人のあなたと暮らし始めるまでは、ロシア語 の辞書なんか引いたこと無かったわよ。なにしろ、間違ったこと教えでもしたら、あなた 後からものすごくうるさいから。それもさ細なことで」
 「わかった。もういい。確かに、自分の国の言葉だ。日本人も国語辞典なんか滅多に引かない。引けない奴は滅多にいないとしても。ところでアーニャ、あんた、英語の辞書は引けるんだろ、学校で習ったんだから。ためしにアルファベットを順番に言ってみてくれないか」  「ABCD・・」、思わぬ展開に緊張した面持ちで彼女は言い始めたが、こっちはもっと緊張していた。

 〜余計なこと言うんじゃなかった。
 もしも彼女が言えなかったら、相当気まずいことになる。
 今日は露文の添削を頼まなければならない。
 けんかは出来ない〜

 幸いにも、彼女が無事最後まで言い終えた時、二人はそろって安どのため息をついていた。


第51回

 正月、暇をもてあまして、久々にかみさんのアンナとロシアトランプをやった。
 あえてロシアトランプと書いたのは、我々が日頃目にしているそれとは、ちょっと形状が異なるからだ。
 ロシアのトランプは、 A(エース)のことを、 T(トゥス)と呼ぶなど西欧規格とは名称も異なるが、2 3 4 5 が無くて、なぜか  から始まり、枚数が全部で36枚しかない。
 枚数が少ないため、ちょうど、牌数を減らして3人でやる麻雀と同様に、役作りが早く高い役が簡単にできてしまう。
 これで通常のポーカーだのブリッジだのやっても、ガキの遊びみたいで面白くもなんともない。
 その辺のことはロシア人も重々認識しているのであろう。ここでルールの説明などするつもりは無いが、遊びはどれも36枚仕様に適応したロシア独特のものばかりで、文化の独自性を強く感じさせてくれる。
 うまく表現できないが、子供の頃から馴染んできたトランプとは、使う思考回路が別物のような気がする。
 最初は戸惑うが、慣れてくると面白いものも多く、特にロシア人なら誰でも知っている定番のドゥラーク(=馬鹿)など、飽きの来ないゲームの奥行きの深さに、感心させられもする。
 さすがは、屋内にこもるしかない冬が、延々と続く風土が生み出したものといえようか。
 サハリンで、毎日決まってやって来た停電。
 ろうそくの灯のもと、飽きもせずにかみさんと繰り返し遊んだ日々が思い出される。


第52回
 
 毎年冬になると、来館するロシア船員の何人かから決まって発せられる質問がある。
 「真冬なのに、なぜ日本の若い娘は短いスカートに素足で外を歩いているんだ。根室だけではなく、稚内でも紋別でもそうだ。別に貧乏で服が買えないというわけではないだろうに。同僚の船員達は、日本で見られる一番不思議な光景だと言っている。」
 「あれは高校生の制服なんだけれども、もう10年以上になるかなぁ、北海道の女子高生が冬に素足で歩くようになったのは」
 「寒くないのか」
 「そりゃあ寒いに決まってるだろうけど、冬でも暖かい東京の女子高生がそういう格好をしているから、それを真似して、防寒よりもおしゃれ優先ということなんだと思う。」
 「でも、ここは北海道、体に良いわけないだろう。後で不妊症になったりする心配もあるだろうし、なぜ親とか周りの大人は何にも言わないんだ。」
 「言ってるとは思うけれど・・・。」
 「余程、俺が注意してやろうかとも思うんだが、言葉がわからないし、仕草だけだと変な誤解も招きかねないから、実行してはいないが・・・。」
 冬のサハリンでコートの前を空けて歩いていると、かなりの確率で赤の他人のおばさんに、前を閉めろと注意される。帽子をかぶらないで歩いている時、わざわざ手を伸ばしてコートのフードをかぶせてくれたおばさんもいた。
 仮に、素足の女子高生を冬のユジノサハリンスクに連れて行ったらどうなるだろう。道行くロシアおばさんは、見ず知らずの日本娘を強引に自宅に連れ帰り、厚手のタイツでもなんでも無理やり穿かせるに違いない。
 仮定の話とはいえ、厳寒のサハリンで素足はありえないだろうと思われる向きも多いかもしれないが、いつだったか、ひざ小僧を真っ赤にしながら戸外を歩く旭川の女子高生達が、テレビに映し出されていたことがある。冬の旭川でユジノサハリンスク並みに氷点下25度を下回ることは、日常茶飯事のはずだ。

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