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銅像


 みなさん、根室公園に銅像があるのを知っていますか。根室公園のはずれに、通りに向いて高い台座の上のひげのおじさんの胸像です。小池仁郎という人です。年をとってからの姿なので「小池仁郎翁」と書いてあります。
 首に勲章を一つさげ、左の胸に三つの勲章があるのに気がつきましたか。きれいなもようの入った立派な服を着ています。これは大礼服といって昭和二十年以前、日本の国でたいせつな儀式のあるときに着た服です。立派なひげは六十歳からのばしはじめたのだそうですが・・・・。
■ 新潟から根室へ

 小池仁郎さんは、今から約百三十年前の慶応二(一八六六)年五月七日に新潟県で生まれました。おとうさんの名は太一郎、お酒を造っていました。仁郎さんは四人兄弟の三番目に生まれましたが、一番上のお兄さんは早く亡くなり、三人兄弟で育ちました。いつも仲よく、勉強もそろって、よく夜遅くまでやったそうです。そのときは、時々一杯やった(お酒をのんだ)という話も伝わっています。また子どものとき、もと越後高田藩(新潟県)の儒学者であった松下武次郎先生について勉強しました。儒学とは、中国の孔子がはじめた、立派な人になるための学問です。
 小池仁郎さんはその後、新潟師範学校速成科に入り、明治十二年に卒業しました。
そのころ、根室にいる伯父の小池吉平さんの養子になることがきまり、明治十三年十月、十四歳のとき、根室へきて漁業を手伝いました。養父となった伯父の吉平さんも養子でした。吉平さんのおとうさんは、人の世話をよくする人で、借金などの保証人になっていましたが、亡くなったあと、かたがわりしたお金をたくさん返さねばならなくなり、吉平さんは家を手ばなしました。

■ 別当賀での暮らし
別当賀での暮らし   吉平さんと養子の仁郎さんは別当賀に草小屋を作って木を伐る仕事をしました。明治十年代の別当賀一帯はうっそうとした森林地帯でした。
 秋のある日、二郎さんと吉平さんが別当賀川へ行くと鮭がたくさんのぼっていたので、二人で家へ持って帰れるだけとり、焼いて乾かし、カラスにとられないように古い網につつみ、軒下につるしました。次の日、仕事から帰ってみると、びっくりして二人とも腰をぬかしそうになりました。子どもを連れた大きなクマと、オオカミが十数頭、おたがいにケンカごしでつるしおいた鮭を食べているのです。
 吉平さんは枯れ草を集めて火をつけ、クマやオオカミを追いはらいました。いまではオオカミはいなくなりましたが、まだそのころは根室にもたくさんいたのだそうです。
 仁郎さんはまた、お酒を作って根室の町へ売りに行ったという話もあります。
 当時(明治時代の前半)は、産卵のために川をのぼってくる鮭や鱒をみんなはたくさんとりました。現在のように、密漁にならなかったのです。川をのぼってきた鮭はホリ(穴)を掘って卵を産みます。仁郎さんは「産卵前の鮭をとっては子孫を絶滅させてしまう、とりすぎてはいけない」と思いました。このことがあとで「さけますふ化場」をつくることにつながっていったのです。

■ 松下武次郎先生との再会

 仁郎さんが別当賀で木を伐る仕事をしていた時、松下武次郎先生と会いました。明治時代になって制度がかわって、高田藩はなくなったので、松下先生は明治十九年、屯田兵として偶然にも根室の和田へ入植していたのです。仁郎さんはまた勉強を習うようになりました。のちに仁郎さんが東京に住むようになっても、根室へ戻ってきたときは先生を尋ねたそうです。いまでも松下先生の子孫のかたは和田におられます。
 吉平さんは「仁郎は別当賀にいては充分な勉強できない、根室市街にいたほうが勉強するチャンスがある」と考えました 。仁郎さんは「天杉菓子店」で働くことになりました。ついで「八木安太郎商店」で働き、帳場や建築や漁業の仕事をも学びました。

■ キリスト教徒になる

 明治十九年九月、アメリカのキリスト教宣教師のカーペンター夫妻が根室へ来ました。根室は英語研究がさかんでした。仁郎さんは家が熱心な仏教の信徒でしたから、キリスト教には反対でしたが、友人にすすめられて英語の勉強に通い始め、その献身的な人柄にふれるうちに、キリスト教信者になりました。
 漁業には日曜日はありませんでしたが、八木商店の主人はまじまな仕事ぶりを信頼していたので、日曜日に教会へ通うのをみとめました。
 カーペンター宣教師は日本へ来てわずか五か月で亡くなりましたが、あとを夫人がひきつぎました。オルガンやバイオリンも習い、讃美歌の伴奏やお説教の手伝いをしました。仁郎さん用のバイオリンは、体にあわせてパーシュレー宣教師がアメリカへ注文して作ったものだそうです。
 明治二十六年に漁場の権利をとり経営に力を入れました。漁場は別海の春別にあり、遠かったのですが、教会へは馬でかけつけたそうです。あるとき、もらった卵をくくりつけて夢中で走ったら教会へ着いたときには全部割れて服がべとべとになっていたという話も伝わっています。
 仁郎さんは根室漁業組合や根室昆布組合の代議員、そして町会議員を十五年もつとめました。明治三十三年に大漁祝のとき、船頭さんの一人がお酒に酔ったまま沖に出ておぼれました。責任は自分にあると、仁郎さんは浜で一晩中お祈りをし、それからはお酒をやめたそうです。

■ ふ化事業にとりくむ

小池仁郎 小池仁郎さんは教育も熱心で、甥の小池密蔵さんや前川十郎さんの面倒をみました。小池密蔵さんはのちに東京で「北海道水産会」(会長・小池仁郎)の仕事を手伝いました。前川十郎さんは札幌農学校に学び、北海道大学の教授となりました。仁郎さんは根室に学校を作りたかったのですが成功しませんでした。道会議員になってからは帯広と本別の二か所に女学校を作っています。
 また若いときの経験から、これからの漁業は魚をとるばかりでなく、育てることもたいせつであると考えて、さけます増殖事業に特に熱心でした。魚を卵からかえらして育てる「ふ化場」の位置の調査に、アイヌを案内に道のない根室原野をよく歩き、アイヌの人々の間では「原野のことはポロニシパに聞けばわかる」といったそうです。ポロニシパとは「大旦那さん」という意味のアイヌ語で、仁郎さんをさしていったことばでした。またアイヌの面倒もよくみたそうです。

 明治三十七年から北海道会議員に四回当選して十二年続け、ついで大正四年から衆議院議員に七回当選、昭和六年には逓信省(いまの郵政省)政務次官として活躍しました。北海道の水産、特にふ化事業に力を入れ、大きな功績を残しましたが、昭和十一年一月二十四日に風邪がもとで亡くなりました。七十歳でした。昭和十四年七月、根室市役所前のときわ台公園がわの角に、仁郎さんの功績をたたえて銅像(立像)が建てられましたが、戦争中の金属供出で取りはらわれました。
 戦後の昭和四十三年に、改 めて建てられたのが、いま根室公園にある銅像です。
 もういちど、ひげのおじさんの銅像をよくみてください。胸についている勲章は東京空襲のとき、そのほかの遺品といっしょに燃えないように苦労したそうです。勲章や遺品は仁郎さんの遺族の方から根室市博物館開設準備室へ寄贈されました。


参考文献

「小池二郎>翁銅像建設記念碑概要」 昭和14年
「北海道之水産76 故小池会長追悼号」北海道水産会 昭和11年
「北海道之水産77 故小池会長追悼記」北海道水産会 昭和11年
「御大典記念根千両国人物名鑑」本城文雄 根室日報社 昭和4年
「小池二郎氏文献目録」根室市博物館開設準備室だより11 平成8年

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